遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『波濤の牙 海上保安庁特殊救難隊』 今野 敏  ハルキ文庫

2015-05-21 10:47:52 | レビュー
 一読者として私の知る限りにおいて、著者・今野が海を直接の舞台として人々が活躍する小説を書いているのはこの作品だけだろうと思う。いくつかのシリーズものを波紋が広がるように読み継いできて、この小説が出版されていることに目を留めたのは、最近のことだった。2014年3月に入手し、2013年8月刊行の作品までを網羅する「今野敏の作品リスト」が手許にある。それには第80作として掲載されているのだが、見過ごしていた。
 この作品は1996年4月に祥伝社のノン・ノベルとして刊行され、2004年にハルキ文庫で出版、2011年1月に新装版として刊行された。冒頭のカバー写真は新装版の表紙である。

 海難救助ものとして一躍有名になったのが『海猿』だ。私は未読で、映画も見ていない。未見の私がこの読後印象をまとめようとして、連想するぐらいだから相当に親炙している作品だろう。ウィキペディアに項目があった。「『海猿』(うみざる)は、作者佐藤秀峰、原案・取材小森陽一による日本の漫画。1999年より連載され2001年に完結したが、翌2002年にテレビドラマ化、さらに2004年に映画化された人気作品である。」と冒頭にある。
 今野のこの『波濤の牙』もかいじょう保安庁特殊救難隊が海上救難活動をすることから事件が展開していく作品である。佐藤秀峰という漫画家の作品の愛読者は1999年から海上保安庁の海難救助ものをご存じだったのだろうが、一般的にはやはり、2002年のテレビドラマ化、2004年の映画化あたりから『海猿』が世間に広まっていったのだろう。
 海難救助ものというジャンルで捕らえると、今野のこの小説がいち早く作品化されていたということに、今改めて新鮮な感覚を抱く。

 「特殊救難隊」は海上保安庁の組織の中に、実際に存在する。ホームページに掲載の「海上保安庁パンフレット」を見ると、「特殊救難隊」が載っていて、「転覆した船舶や火災を起こした危険物積載船等における人命救助や火災消火等高度な救助技術と専門的知識を必要とする特殊な海難に対応するための救助のスペシャリストです。救急救命士を含む6隊36名編成で、全国の特殊な海難に航空機で即座に対応できるように24時間出動できる体制をとっています」と説明されている。つまり、海上保安庁には、一般的な海難救助の役割を担うチームと、緊急かつ高度な救助技術を必要とする海難に対する特殊救難の役割を担うチームが居るようだ。
 
 この小説は、海が時化て豪雨が視界を遮る中で、63トンの漁船・第十二豊政丸が、突然現れた倍ほどの大きさの漁船をよけきれずに、衝突する。相手の船の船尾部が第十二豊政丸の左舷に衝突したのだ。乗組員5人が漁船の沈没の危機に晒される。船長は当て逃げして豪雨の中を去っていった大きな漁船の船体にハングルが書かれていたことで、北朝鮮の漁船と推測する。この海難救助をするのが、海上保安庁特殊救難隊の第二隊、惣領正の率いるチームである。冒頭から海難事故と救助のシーンがリアルに描かれる。以下特殊救難隊を作品内での略称に合わせて特救隊と記す。
 そして、船体にハングルが書かれていた大きな漁船が、このストーリー展開への伏線となっていく。

 著者は、まず特救隊を簡潔に説明している。「海上保安庁の第三管区保安本部警備救難部救難課に属している。1974年に東京湾で起こった『第十雄洋丸』と『パシフィック・アレス号』の衝突・炎上の事故を契機に検討され、翌75年10月1日に発足した。当初は隊長1名、隊員4名のわずか5名しかいなかった。現在は東京・羽田に基地を置き、隊員は24名だ。隊長、副隊長、隊員4名(うち1名は救急救命士)の6名ずつの4隊編成になっており、24時間の出動体制を取っている。」作品が刊行されたのが1996年だから、現時点ではさらに2隊12名が増員されているということになる。

 この小説は、第十二豊政丸の乗組員を海難救助した惣領が、隊員の赤井と会話する内容から始まることになる。北朝鮮の船らしいという当て逃げした漁船の行方がわからなくなっているのだ。北朝鮮の船であり、もしそれにスパイが乗っていたとしたら・・・という論議は、海上保安庁と海上自衛隊の観点の違いを含ませていて、かつクライマックスでの一場面の伏線にもなっている。これはまあ、読了して気づいた事なのだが。このやりとり自体も、さりげなく書かれているが、やはり重要な視点だろう。
 第十二豊政丸に船尾をぶつけた大きな漁船がその後の台風の接近の中で、海難に遭わないかという惣領の危惧が的中することになっていく。本部から海難信号を受信したことで、出動指令が出る。惣領以下第二隊が出動することになる。船が浸水。動力を失っているようで、船は北朝鮮船籍の漁船だという。茅ヶ崎沖北緯35度東経139度20分。
 第二隊は、ヘリコプターで2名が先行し、惣領他3名が巡視船で現場に向かうことになる。ヘリコプターで先行した赤井が機長に本部への連絡を依頼する。対象の船を発見したが、船体にハングル、北朝鮮の旗と救助要請の一字信号旗を確認。ただし、国籍を偽装している可能性もあると付け加えたのだ。

 惣領たちは、横浜港から乗り込むのは非番だった『すがなみ』という30m級の巡視艇だった。総トン数125トン、最大13人乗り、30ノット(55km)で航行できる船である。これで現場に向かう一方、先行したヘリコプターは天候の関係で対象船の発見後、基地に引き返すことになる。つまり、惣領を含め4人で海難救助の任に就くことになのだ。
 
 この小説のおもしろいところは、その展開である。
 第1段階は、何は救助要請に対する海難救助活動の状況描写である。救助の展開プロセスが興味深い。ところが、その救助した漁船の乗組員3人には場違いな風体の者も含まれていた。そして、この助けた連中を巡視艇『すがなみ』に無事乗り移らせた段階で、拳銃をつきつけられて、シージャックに遭うこととなる。北朝鮮の旗は、赤井が疑問視したように、偽装だった。
 第2段階は、彼らが漁船に残した荷物を特救隊に取りに行かせるという危険を冒させる。彼らの航行目的はその荷物にあった。その一方で、巡視艇の無線機を銃で撃ち破壊するという暴挙に出る。嵐の中で、無線を破壊してまで確保したい荷物とは? 覚醒剤である。荷物の回収を惣領はやらざるを得なくなる。この間の経緯と覚醒剤という荷物の回収が一つの転換点となる。惣領たちはどう対処すべきなのか。「たしかに惣領たちは海難救助のプロだが、海上保安官の仕事は海難救助だけではない。犯罪の検挙も仕事のひとつ」なのだから。
 第3段階がこの小説の大きなテーマとなる。台風が近づいてきている荒れた海上で、シージャックされた巡視艇。海難救助から覚醒剤の密輸入という犯罪にどう対応するか。救助した連中3人がそれぞれリボルバーの拳銃を持っている。無線は破壊されている。特救隊は惣領を含め3人。巡視艇は浅田艇長を含め4名。海上保安庁の7人は、丸腰である。台風は刻々と接近してくる。無線経由で台風に関わる気象情報を入手することはもはやできない。台風が接近するなかで、巡視艇『すがなみ』が他の海上保安庁の艦艇の助力を得られる術もない。
 無線での連絡手段がない荒れた海上。そこでのシージャックという危難にどんな対応策をとれるのか。その展開プロセスが読ませどころである。
 この読ませどころには、『すがなみ』と連絡がとれない状況に置かれた横浜港の基地側の立場を描いて行く。ヘリコプターで引き返して基地に留まる赤井と他の特救隊が示す信頼関係と予期せぬ事態に対する状況分・析判断と行動にある。
 
 この小説の展開に多少の彩りと第三者的切り口を加えるのは、惣領の恋人でニュースショウのキャスターになることを目標にしている有賀沙恵子である。沙恵子は台風18号の接近、台風の房総沖通過という予測により、久しぶりのデートが惣領からの電話でキャンセルになる。そして、沙恵子は東京テレビネットワークのプロデューサーがニュースショウの女性キャスターの仕事の話を、沙恵子へのプロポーズの土産としてくっつけるという形で、アプローチしてきたのだ。
 沙恵子は、基地にいる惣領に電話をかけると、赤井が状況を告げる。沙恵子は横浜港の基地に駆けつけていくことになる。そして、海上保安庁の職員の家族同様の扱いを受ける形の中で、刻々と展開していく状況を監察する立場になる。この第三者の目線がひとつの奥行きをこのプロセスに加える働きにもなっている。
 そして・・・・・沙恵子は結果的に、ジャーナリストとしてスクープをものにする立場に立つ。この落ちは実に自然でかつ喝采という終わり方である。

 後半は台風接近というタイムリミットがある中で、荒れ狂う海上が舞台となる。銃をつきつけられた人質という立場に居ながら、海上保安庁の職員として、最後まで犯罪と対決していこうとするファイト。丸腰の人間が行う知的格闘がメインとなり、強力な信頼関係にある仲間の阿吽の呼吸が生み出す決め手がストーリーの展開を盛り上げていく。エンターテインメント性も十分ある。
 なぜ、この特救隊ものが、シリーズとして後続していないのか。ちょっと不思議な気もする。


 ご一読ありがとうございます。

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本作品と直接間接に関連する事項をいくつか検索してみた。一覧にしておきたい。

海猿  :ウィキペディア
海上保安庁 ホームページ
  警備救難部救難課
  平成12年版 海上保安白書  目次
    不審船事案への対応  第2部 第1章 Ⅰの4項
     第4章が「海難及び人身事故の救助」 左のメニューからアクセス
  「海上保安庁」パンフレット
    13ページ「命を守る」に海難救助の説明があります。特殊救難隊も提示。
  第三管区海上保安本部
     生命を救う  海難救助
第三管区海上保安本部  :ウィキペディア
第三管区海上保安本部羽田特殊救難基地   :ウィキペディア

捜索救難における漂流予測方針の検討について  及川幸四郎氏 論文
救難機器  :「太洋無線株式会社
海上通信 :「電波利用ホームページ」(総務省)
主な艦載兵装
護衛艦  :「JMSDF 海上自衛隊ホームページ」


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このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『チェイス・ゲーム ボディーガード工藤兵悟2』 ハルキ文庫
『襲撃』  徳間文庫
『アキハバラ』  中公文庫
『パラレル』  中公文庫
『軌跡』  角川文庫
『ペトロ』 中央公論新社
『自覚 隠蔽捜査 5.5』  新潮社
『捜査組曲 東京湾臨海署安曇班』  角川春樹事務所
『廉恥 警視庁強行犯係・樋口顕』  幻冬舎
『闇の争覇 歌舞伎町特別診療所』  徳間文庫

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