遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『継体王朝 日本古代史の謎に挑む』 森浩一・門脇禎二 編  大巧社

2014-01-15 15:50:19 | レビュー
 本書は、表紙右上に記載されているが「第7回春日井シンポジウム」の記録出版である。本書冒頭で初めて知ったのだが、春日井市では平成5年から毎年シンポジウムを開催してきたそうだ。その後の経緯を少し関心を抱き、ネット検索してみた。その結果は別記する。この第7回は平成11年(1999)11月に継体ゆかりの市町協力による「継体サミット」として実施されたという。ごく最近まであまり継体大王/天皇(以下継体と略記)に関心を持っていなかったので、当時にそんなサミットがシンポジウムとして存在することすら知らなかった。サミット参加市町は、福井県丸岡町、滋賀県高島町、京都府宇治市、大阪府枚方市、福岡県八女市、愛知県春日井市である。私の地元、宇治市も参加しているということを読み、継体との関連について認識を新たにした次第。

 最近継体に関心を持ち始めて、本を読み継いでいくと、1990年代の後半に出版された本がよく目にとまる。この頃に考古学や古代史の領域で一つの継体ブームが訪れたようだ。1999年11月に開催されて、本書が2000年11月に記録として出版されている。
 「はじめに」(森浩一)を読むと、こういう一節がある。
「考古学的にいえば、古墳時代中期末から後期初頭、歴史的にいえば、五世紀末から六世紀前半にかけての時期の研究は、ここ数年でめざましい成果が集積された。それらの成果を持ちよって問題点を確かめあい、それを深化させることができれば、一つには古代においての東海地域の役割を日本列島全体のなかで位置づけられることであり、もう一つは日本歴史全体のためにも役に立つと考え、このシンポジウムを実現した。」

 考古学や古代史の学会論文などは少し関心を抱く古代史入門者には敷居が高すぎる。その点、この種のシンポジウムは専門用語が含まれるとはいえ、すこしかみ砕いた形での総括的な報告がベースとなっている。一般的な啓蒙という観点も念頭にあるからか比較的読みやすく、素人でもそれなりに概略把握できて有益である。

 継体は大和での皇位継承者の空白期に、越の国(今の福井県)から現れて新たに倭国の支配者になった人物。大和に入るのは晩年になってからという特異なプロセスを経ている。継体が勢力を持ち、いわば新王朝を確立するうえで、越、尾張、近江、山背の在住豪族たちがその支援者になったという。私自身は近年、滋賀県高島市にある鴨稲荷山古墳跡や、田中王塚古墳などを探訪する機会を得、「平成24年度 春季特別展 湖を見つめた王 継体大王と琵琶湖」というのを滋賀県立安土城考古博物館で見たことが、継体関連本を読み継ぐきっかけになった。地元の古墳・御陵探訪という軽い気持ちで継体を意識することなく訪れた宇治二子塚古墳が、これまた継体の勢力圏という意味で関わりがあるという基調発表を読み、認識を新たにした。一層、継体の謎に関心をそそられてきている。

 さて、本書の構成をまずご紹介しよう。本書は5部構成になっている。シンポジウムなので、最初に基調発表がいくつかあり、討論でまとめられるという流れである。シンポジウム自体は4部構成、本書には第5部として誌上参加の論文が加えられている。基調講演は*で略表記した。

第1部 継体の出自と系譜
 *継体王朝の成立          和田 萃
 *継体大王の母・振媛の里・三国   青木豊昭
 *彦主人王・三尾          白井忠雄
 *目子媛・味美二子山古墳      伊藤秋男
 討論 継体王朝の成立  福岡・青木・和田・兼康・白井、(助言)森(司会)伊藤
 討論資料 継体大王をめぐる近江の古墳  兼康保明
第2部 継体と淀川地域
 *継体・欽明王朝と考古学の諸課題  森 浩一
 *くすばと樟葉宮          西田敏秀
 *継体期前後の山背地域       荒川 史
 *継体大王の陵・棺・埴輪      森田克行
 討論 淀川流域をめぐって 門脇・清水・赤崎・森田・西田・荒川、森(司会)八賀
第3部 継体王朝の展開
 *継体・欽明紀にみる朝鮮半島の地名と遺跡  西谷 正
 *玉穂宮・手白香媛の墓       清水禎一
 *磐井の乱と岩戸山古墳       赤崎敏男
 討論 近畿から九州・朝鮮半島へ 西谷・清水・赤崎・森田・大竹、森(司会)福岡
 討論資料 潘南面 新村里9号墳の再調査   大竹弘之
第4部 まとめにかえて  
 継体王朝をめぐって   門脇禎二・森 浩一  (聞き手)宮崎美子
第5部 誌上参加
 今城塚古墳の築造規格        大下 武

 この本書目次をご覧いただくと、継体に関連して人の繋がり、基盤となった勢力地域、当時の日本と朝鮮半島との関係など、網羅的多面的に論じられていることがお解りになるだろう。継体に関心を抱き始めた人には、豊富な示唆が得られ、論点も多々あり、刺激的である。考古学、古代史研究の時間軸から考えると、14年前の出版とはいえ、それはほんの瞬時くらいの長さにしかすぎず最新刊同然であろう。勿論、10年という単位で見ると、そろそろまた、継体研究の成果が多くまとめられてくるのかもしれない。その点も期待したいけれど、この書をまず開けてみてはいかがだろうか。

 最後に、本書からメモ書きしておきたいと思う刺激的で示唆に富む箇所を引用しておきたい。
*古代史学者の水野祐氏の仮説にたてば、古墳時代にほぼ相当する期間についての古王朝、中王朝、新王朝のうちの、まさしく新王朝の始祖が継体天皇であり、考古学的には古墳時代を前期、中期、後期の三区分したときの後期のほぼ最初の人物である。 pii
*6世紀後半代に大王系譜がまとめられた段階では、崇神から武烈まで、一つの王統が連続していますが、元々は少し違っていたのではないか。そんなことも想像されます。・・・いくつかの複数の王家から大王が出ていたものが、後にはそれが父親から子へという形の系譜に手直しされた可能性もかなりある。・・・継体はもし従来の王統と血縁関係があったとしてもごく薄い関係であり、全く別の王統とみてよいと思います。やはり継体によって新しい王朝が立てられたとみるべきものと思います。  p14
*オホイラツコから始まる王家、私は一応、息長王家というふうに考えておりますけれども、その血筋を引いていたことが実は継体が擁立された最大の背景にある。応神五世孫というふうな、後に生じた伝承ではなく、曾祖父の段階でその姉であった忍坂大中姫が允恭天皇の皇后になったことこそ、継体が擁立された最大の理由ではなかったかと思います。  p16
*新池埴輪窯の研究から太田茶臼山古墳は実は五世紀中ごろのものであり、今城塚古墳が真の継体陵であることがはっきりしました。・・・太田茶臼山古墳は、実は継体の曾祖父オホイラツコに結びつくのではないかと考えています。 p25
*古代の三国は一般に流布している地域概念とは違っている・・・・三国というのは後の律令制の時代でいいますと、坂井郡、足羽郡、大野郡の三つの郡域にわたる地域です。・・・三国の主要部は、現在の平野名でいいますと福井平野で、越前の穀倉地帯です。 p30
*横山古墳群は律令時代の三尾郷、あるいは律令時代の三尾駅と推定される付近にありますので、まさにここが三尾氏の根拠地だろうと私たちはみています。  p38
*今後、五世紀代までさかのぼるような鉄生産遺跡が三尾郷に出てくれば、継体大王の近江勢力は鉄と深い関わり合いを持った三尾氏を含めた豪族のなかから誕生したといえるのではないかと思っています。   p48
*大和の王家の血筋が絶えたから継体の擁立になるのではなくて、アジア全体の新しい動きのなかから倭国の次の国王にふさわしい人を擁立しようという動きがあった。継体擁立の問題はそういう大きな流れのなかから出ていると考えています。  p116
*川はそのまま海に出ることができるのです。だからなぜ継体は樟葉とか筒城とかあるいは弟国のようなところに都を置いたのかというと、アジア全体の都の位置と共通性があるということに加え、瀬戸内海ひいては朝鮮半島へ行くにも便利な位置を押さえていたということだろうとおもいます。  p119
*木津川沿いに木津から宇治へ行くまでに大小さまざまな港があります。・・・交通を統制するというのは、交易をどう統制するかにかかってくると思います。・・・巨椋池の役割は非常に重大だと思いますね。古代の巨椋池が淀川と木津川、宇治川の水運をむすび、そして山科盆地をへて琵琶湖に出る交通の要衝である・・・・大変参考になりました。 p187
*何世の孫といいましても、その用い方に時代や国による特徴があるということです。だから中世や近世より後の系図のように、現実の人びとの世代を示しているという考え方をあまり古代の史料に持ち込んだらいけない、と私は思っています。 p286
*「ヤマト(倭)」と「オオヤマト(大倭)」というのは非常に大事な問題だ・・・・ヤマトとオオヤマトの使い方には微妙な違いがある。  p286
 → ヤマト:元来は三輪山麓西の狭い地域 / オオヤマト:ほぼ大和盆地全体地域
*たしかに奈良県には古墳はたくさんあるけれども、それは全部足したらたくさんあるということで、例えば五世紀の末とか、六世紀中ごろとか区切っていったら必ずしも近畿全体で大和がいつもトップというわけではないのですね。これからはそこを区別して、文献の方のおっしゃる大和のイメージと重ねないと、絶えず大和は一枚岩で大きな存在だという見方になってしまいます。これはまだかなり時間をかけないと、解消されないでしょう。  p287
*ちょうど玉穂宮がある磐余地域の最も大きな豪族は阿倍氏であり、阿倍氏が中央政権傘下に入ってくる時期が継体の時期と重なってきます。この阿倍氏を注意深くみていきますと、そのうしろにいつも蘇我氏の影がちらついています。継体の初期のころは尾張氏などの物部氏、それから大伴氏といった大和古来の豪族がその基盤を支えていたと思うのですが、後半から欽明の時代になってきますと、徐々に蘇我氏が台頭してくるのではないかとみてとれます。  p226
*和珥氏というのは複雑で、春日氏、大宅氏、柿本氏、小野氏などいろいろな氏になっていきます。・・・継体町以後のころから和珥氏というのは大和の東南部では阿倍氏になっていった可能性があるのではないかと考えてきました。  p288
*継体と欽明の時代に仏教を取り入れてしまったわけです。思想・精神の面の一大改革をやりはじめたのも継体ということになります。 p293 →存在としてのすごさ
  付記:継体は、天皇の非直系。非名門。地方出身。各地有力者を組織化・連携。
     倭国の国王にふさわしい教育を受けて育った。九州や朝鮮半島との問題解決
*冠が大和に入るのは実は藤ノ木古墳の時代になってからです。北陸や近江などよりもはるかに遅い。
  付記: 二本松山古墳(福井県松岡町)出土の冠  金メッキと銀メッキの二冠
      韓国の大伽耶の古墳、高霊の池山洞32号墳出土の冠と形態が類似
      鴨稲荷山古墳(滋賀県高島市)出土の冠  金銅製広帯二山式冠
 そういう交通の問題とか、地域の成果を汲み上げながら新しい古代史像を作らなくてはいけないと思います。       p293

 この一冊で一層継体への関心が高まった。

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以下、本書関連でのネット検索結果を一覧にまとめておきたい。

{ 春日井シンポジウム関連 }

NPO法人 東海学センター ホームページ
「春日井シンポジウム20年の歩み」  春日井市発行
 
継体天皇 :ウィキペディア
継体大王の生い立ち :「継体大王と越の国・福井県」
二本松山古墳 → 県内の継体大王ゆかりの地:「継体大王と越の国・福井県」
滋賀県 田中王塚古墳/鴨稲荷山古墳/水尾神社:「継体大王と越の国・福井県」
鴨稲荷山古墳 :「滋賀県観光情報」
継体の威光きらめく冠と沓 鴨稲荷山古墳(滋賀県高島市)
古きを歩けば特別編・装いを重ねて(5)
味美二子山古墳 :ウィキペディア
味美(あじよし)二子山古墳公園画像12枚 :「愛知限定歴史レポ」
断夫山古墳 :ウィキペディア
断夫山古墳 :「邪馬台国大研究」
断夫山古墳 :「文化財ナビ愛知」
今城塚古墳 :ウィキペディア
史跡今城塚古墳とは :「インターネット歴史館」(高槻市)
  発掘調査でわかったこと
太田茶臼山古墳 :ウィキペディア
 
今城塚古代歴史館 :「インターネット歴史館」(高槻市)
高島歴史民俗資料館 :「淡海の博物館」(滋賀県博物館協議会)
高島歴史民俗資料館1階  :Youtube
 
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継体関連では以下の本の読後印象を掲載しています。
ご覧いただけるとうれしいです。

『継体天皇と朝鮮半島の謎』 水谷千秋 文春新書

『大王陵発掘!巨大はにわと継体天皇の謎』 
    NHK大阪「今城塚古墳」プロジェクト NHK出版

『倭の正体 見える謎と、見えない事実』 姜吉云  三五館