遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『陽炎の門』 葉室 麟  講談社

2013-09-23 11:07:50 | レビュー
 本作品は、九州、豊後鶴ケ江に6万石を領する黒島藩を舞台とする物語。桐谷主水が大手門を抜けたあと、脇にある石段を上り潮見櫓の門をくぐるところから始まる。軽格の平侍だった主水が37歳で産物方取締として執政に昇進し、藩の主立つ者のみが通れるこの門をくぐる。出世することを目標にし、職務において冷徹非情に振る舞うことから、<氷柱の主水>などと陰で呼ばれる主水が望みだった出世をし、初めての執政会議に出るために登城したのだ。
 だが、先輩の執政たちはそれぞれに思惑を持ち、主水に冷淡な応対をする。そして、藩主が出座してきて会議の始まる前に話題になったのが、芳村綱四郎が切腹の仕儀となったことと、後世河原の騒動だった。この2つの件に主水は関係していた。

 主水は眉尻に傷がある。この傷を無意識に触るのが癖になっている。それを藩主・興世が指摘した。この傷は主水17歳の時、後世河原での騒動中に怪我したのである。領内を流れる尾根川の河原で、城下で競い合う2つの道場-直心影流諸井道場と浅山一伝流荒川道場-に通う藩士の子弟がそれぞれに人をかき集めて、二十数人が決闘騒ぎを起こした。この騒動を聞きつけ、主水と綱四郎は止めに入ったのだ。だが、この騒動は死人が2人、ひどい怪我をした者も十数人に及ぶものとなった。そのうちの一人は片腕をなくした。現在の次席家老渡辺清右衛門の嫡男である。その後、この嫡男は京都で出家の道に入る。
 
 芳村綱四郎は、前藩主を誹謗する落書を書いたという咎めを受ける。その落書の「佞臣ヲ寵スル暗君ナリ」という筆跡は綱四郎のものと証言したのが主水だった。その落書には「百足」と記されていた。親しい友であるが出世競争の相手でもある綱四郎の手跡に間違いないと証言することで、競争相手がなくなることにもなる。その綱四郎は主水の証言が決め手となり切腹を命じられる。だが、綱四郎は主水の介錯を希望する。主水は綱四郎の首を打つ立場となる。それが10年前である。
 ちょうどこの頃、藩内では前の筆頭家老熊谷太郎左衛門と次席家老森脇監物との間で派閥争いが激しかった。俊秀な綱四郎は監物から目をかけられ、森脇派に属していた。主水は派閥を好まず旗幟を鮮明にしなかったのだが、亡父尚五郎が熊谷派に属していたことから、主水も親戚に迫られ熊谷派の会合に顔を出す様になっていた。熊谷太郎左衛門は当時の藩主・興嗣の気に入りであり、藩主は江戸藩邸で贅沢な暮らしをしていた。一方、監物は藩政改革推進として藩主に倹約を献策して、興嗣の不興を買っているという噂が立っている状況だった。その状況の中で、綱四郎が藩主を誹謗したというのだ。
 綱四郎は切腹の前に、家族に主水を決して恨むなと言い残したという。

 主水は執政に取り立てられる前年12月、36歳で嫁を迎える。江戸藩邸用人、芳村作兵衛の養女・由布である。だが、この養女は切腹した勘定方芳村綱四郎の娘だった。作兵衛が主水に縁組を持ちかけ口説いて、由布との祝言にこぎつけさせたのである。
 主水が執政となった日に、綱四郎の遺児である喬之助が主水の屋敷を訪れる。登城している主水に代わり、姉である由布が弟に会い話を聞く。喬之助は仇討ちするために戻ってきたのだという。そして、証となる書状を提出して仇討ちの許可を藩に願い出たのだ。

 翌朝登城した主水は、家老の尾石平兵衛に呼び出される。家老の執務室で同席していた町奉行の大崎伝五から書状を見せられる。その書状には、「芳村綱四郎ハ冤罪也、桐谷主水ノ謀也」と記され、末尾に「百足」と記されていた。
 主水は証言したことについて間違いはなかったと確信するものの、時おり綱四郎を介錯した際の光景を夢に見てうなされていたのだ。執政になったその翌日に、己の証言が正しかったことを立証しなければならないという窮地に陥る。

 18歳になっている芳村喬之助は百足と名乗るものから情報を随時得て、父親は冤罪なのだと信じ、仇討ちのため江戸から九州の国許に戻ってきたのだ。喬之助は、廻国修行をする剣術の師匠、直心影流の貫井鉄心の供をする形で立ち戻ってきた。そして、かなり武者修行を積んでいると思われる兄弟子、竹井辰蔵が一緒なのだ。この二人は、仇討ちが許されれば、喬之助の助太刀をする役回りを担うのだろう。町奉行所に仇討願いを提出した後、山越えして肥後に向い、三月後に戻って来るという。
 3ヵ月の間に、主水は10年前に何があったかを明白にしなければならなくなる。10年前の落書と今回の書状を、大崎伝五は主水に託すことはできないと言い、江戸詰めから帰国した小姓組の早瀬与十郎に書状を託し、主水に同行させるという。主水の究明活動に対して、体のよい監視役となるのだ。行動を制約され、限られた時間の中で、主水は己の証言に間違いがなかった事実を立証しなければならない。

 主人公桐谷主水は「俯仰して天地に愧じるところは何もない」と自分に言い聞かせていても、綱四郎の失脚により出世に邁進してきた己のあり方への懊悩が心中深く潜んでいる。そして、この窮地。10年前に生じていたことを明白にしなければならないという、事実究明が始まる。本書は、主水によるディテクティヴ・ストーリーとして展開する。その手がかりは、書状の筆跡であり、百足と記された言葉である。
 主水は、綱四郎とともに学んだ学塾の恩師、孤竹先生を訪ねることから始めていく。だが、そこから思わぬ展開が始まることになる。一方、主水には常に早瀬与十郎と大崎伝五の手の内にある闇番衆が監視の目を光らせる。

 20年前に起こった後世河原の騒動、10年前の熾烈な派閥争いの中での綱四郎の落書と切腹、その後の黒島藩内執政の更迭と新体制の実態、それらがすべて絡み合っていることが徐々に明らかになっていく。
 大きく見れば、黒島藩のお家騒動物語。そこには、複雑に絡み合う人間関係がある。主水と由布の関係、由布と弟喬之助の関係、執政間の確執関係とその底流にあるかつての派閥争い、究明に立ち向かう主水と与十郎・闇番衆との関係・・・まさに四面楚歌の人間関係のしがらみの中で、絡み合った人間関係の結びつきが解きほぐされていく。

 そこには、「忠義のあり方」「憧憬、ある種の忍ぶ恋」「出世願望」「派閥争い」などのテーマが絡んでいる。推理小説の手法をベースにして、ストーリーが展開していくので、一気に読ませるところとなる。「百足」がキーワードになるというおもしろさ。
 ストーリー展開にいくつかの意外性の仕掛け、どんでん返しが組み込まれていて、なかなか興味深い。そして、最後の幕の閉じ方もおもしろいところがある。

 芳村喬之助は師匠と兄弟子の剣術の力量を頼りにして、父の冤罪をはらさんが為に仇討ちをしようとする。
 「佞臣ヲ寵スル暗君ナリ」という文字が綱四郎の筆跡だと確信する主水は、主水の証言が咎の決め手となったにも関わらず、介錯を主水に委ね、従容として腹を切ったのはなぜなのかを究明して行く。
 そして、主水は綱四郎の娘であり今は己の妻である由布とこんな会話をする。
 「もうひとつわたしにはわかったことがある」
 「なんでございましょうか」
 「わたしがなすべきことだ」
 「旦那様は何をなされるおつもりでございましょうか」
 「亡き友の仇討ちだ」
 「それは--」
 「そうだ。わたしは百足を討って綱四郎の仇をとろうと思う」 (p198、一部略)

 瞬く間に3ヵ月が過ぎ、喬之助が豊後鶴ケ江に戻ってくる。藩は仇討ち願いを、武門の意地による立ち合いとして許可する。主水は、立ち合いの場所として、20年前に決闘騒動が行われた場所、後世河原を所望する。それは認められ、藩主興世の立ち会いの下で、主水は喬之助との果たし合いに臨むこととなる。
 その主水は由布に告げる。「わたしは喬之助殿を決して死なせず、必ずそなたのもとへ参らせると言い置くぞ」。これがいずれかが死ぬという立ち合いの場に臨むはずの主水の言だった。
 意外な展開がなければ、この解決策はありえない。このあたりがこの作品の読みどころである。実におもしろい展開だ。

 この作品を読みながら、なぜ「陽炎の門」という表題なのか。ちょっと不思議だった。それは最後の数ページにさりげなく記されている。ひとつは、次席家老渡辺清右衛門の嫡男で、片腕をなくし出家し、義仙と名乗る僧が主水に届けた書状に記された文言である。他のひとつは、1年後に潮見櫓の門をくぐった主水が、立ち止まって<出世桜>と称される桜に目を向けた時の体験だ。ここに、筆者のテーマのひとつが凝縮しているように思う。
 この作品もなかなかおもしろい仕上がりである。推理小説的手法を使いながら、武士道の根幹に関わる武士の生き様・価値観の一局面が追求され、描かれていく。それを鮮明にする形で、最終段階近くから榊松庵という医者が後世河原の騒動に関係する一人、証言者として登場してくる。
 主水は与十郎に言う。「わたしは殿に抗い、戦いを挑む不忠、不義の道を歩もうと思い定めた」と。
 人間の性・嗜好性に基づく非道、武士の忠義、そして忍ぶ恋の有り様が織り上げた物語である。そこにひとひねり加えられているところが、この作品のおもしろさだと感じる。 後は、ストーリー展開の妙を読んで愉しんでいただくとよいだろう。


 ご一読ありがとうございます。

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本作品を読み、こんな語句をネット検索してみた。一覧にしておきたい。

君君たらずといえども臣臣たらざるべからず デジタル大辞泉の解説:「コトバンク」

直心影流 
 → 直心影流剣術 :ウィキペディア
 → 直心影流 世界大百科事典 第2版の解説 :「コトバンク」
 → 法定(ほうじょう) :ウィキペディア
 → 鹿島神傳直心影流 :「日本古武道協会  official site 」
 → 鹿島神傳直心影流
 → 直心影流 直心伝習館
 → 直心影流 「法定」 :「日本伝統技術保存会」
古流の剣道  「直心影流 - 連続の形」 :YouTube
  
浅山一伝流:ウィキペディア
浅山一伝斎 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
浅山一伝流兵法 :YouTube
浅山一伝流 第31回浅草日本古武道 :YouTube
 
押込 :ウィキペディア
主君押込 :ウィキペディア
 
豊後国 :ウィキペディア


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『おもかげ橋』 幻冬舎

『春風伝』  新潮社

『無双の花』 文藝春秋

『冬姫』 集英社

『螢草』 双葉社

『この君なくば』 朝日新聞出版

『星火瞬く』  講談社

『花や散るらん』 文藝春秋

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