遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『出星前夜』 飯嶋和一  小学館

2013-04-15 14:21:40 | レビュー
 『検定不合格日本史』(家永三郎著・三一書房)は、一般に言われる「島原の乱」という語句を使わない。「信徒を主力として九州の島原・天草に起こった百姓一揆」と記す。そして、こう補足説明している。
 「1637年(寛永14年)、島原半島の農民が、領主松倉氏の圧政に耐えかねて一揆を起こし、天草四郎時貞という少年を首領にいただき、キリシタンの旗を掲げ、島原の原城にたてこもった。幕府軍の攻撃はなかなか効を奏せず、ついに老中松平信綱を派遣してようやく城をおとしいれた。」(p129)

 また、『詳説日本史研究』(五味・高埜・鳥海編、山川出版社)は、「1637(寛永14)年から翌年にかけて島原の乱がおこった。」と書き、「この乱は、うち続く飢饉であるにもかかわらず島原城主松倉重政(?~1630)父子や天草領主寺沢広高(1563~1633)が領民に苛酷な年貢を課したり、キリスト教徒を弾圧したことに抵抗した農民の一揆である。島原半島と天草島は、かつてキリシタン大名の有馬晴信と小西行長の領地で、一揆勢のなかにも有馬・小西氏の牢人やキリスト教徒が多かった。小西行長の遺臣益田好次(?~1638)の子で16歳の天草四郎時貞(1623?~38)を首領にいただいて一揆勢3万余りは原城跡に立てこもった。幕府は板倉重昌(1588~1638)を派遣して鎮定にあたらせたが失敗に終わり、ついで老中松平信綱(1596~1662)が九州の諸大名ら約12万の兵力を動員して、原城を包囲し兵糧攻めにした。またオランダ船による海上からの砲撃を求め、ようやくこの一揆を鎮圧した」(p242)と説明している。

 これらに記された「圧政に耐えかねて」「苛酷な年貢を課したり。キリシタン教徒を弾圧したこと」という言葉の意味することがどういうことだったのか。「攻撃はなかなか効を奏せず」、一揆勢3万余人に対し、結果的に「約12万の兵力を動員して」鎮圧する規模までになったのはなぜだったのか。本書はこのプロセスを微細克明に描き出して行く。4行あるいは14行で記されたことを541ページのフィクションにしてリアルに描きだしたのだ。史料的裏付けがどこまであるのか、どこからが史料の行間から羽ばたいていった著者の想像なのか、判断はできない。しかし、この一揆が発生せざるを得なかった必然性というのは、フィクションだからこそ臨場感をいや増してくるのだと思う。
 本書は歴史認識を深めて行くために、この一揆の史実と幕藩体制を考えるうえで、一読の価値がある。読み応えのある作品だ。
 本書には、末尾に参考書目の記載がない。どれだけの史料文献などが渉猟されているのだろうか。本書を読み、その点への関心も芽生えてきた。

 本書は見出し語のないプロローグ、第1部、第2部部、及び見出し語のないエピローグから構成されている。
 プロローグは、本書の主要人物の一人、外崎恵舟が馬に額を蹴られ頭蓋骨陥没の状態で死の淵を彷徨う貞八の治療において無力感を感じるシーンである。その場は、伝説の名医修道士ルイス・アルメイダとの出逢いの機会になる。南蛮人の医術に対する真の目覚めでもある。恵舟という医者を浮彫にする。

 第1部は、寛永14年(1637)陰暦5月から陰暦8月11日までを南目村を舞台に描く。
 ここ2年ほどの天候不良や大颶風の襲来が飢饉をもたらす。南目の一帯では「傷寒」が蔓延し始めている。有家村においても、子供たちが次々に「傷寒」に罹っていく。そんな場面から話が始まる。本書の主要人物、鬼塚の庄屋甚右衛門が長崎袋町の外崎恵舟を訪ね、恵舟に有家村への往診を依頼する。自宅での診療に忙しい恵舟は、有家村に往診し治療に専心するが、持参の薬が底をつく。恵舟は有家代官所に助成を頼むが逆に長崎に立ち去れと命じられる。恵舟は有家村の苛酷な状況を悉に知り、長崎の代官陣屋を訪ね、末次平左衛門に直接訴えるのだ。
 有家村の甚右衛門の家は代々鬼塚土着の豪族であり、有馬家が領主だった日野江城時代は鬼塚監物時次と称し、朝鮮出兵での戦の経験をしている。有家村はもともと水軍衆の村でもある。キリシタン大名有馬晴信が甲斐配流の後斬首され、松倉家が転封により島原に入封し統治を始める。キリシタン禁令の後、朝鮮での酷い戦を知る監物は、早々と棄教の道を選ぶ。松倉家の命令に唯々諾々となっているかに見えることに周りからの非難が浴びせられる。しかしそれらの声を相手にせず、農民としての生活を率先する。松倉家の悪政の下で、農業生産力の向上をはかりつつ耐える生活に徹していく。だが、うち続く自然災害による疲弊が有家村の人々にとって、限界近くの状況に追い詰めてきているのだ。
 陰暦5月7日、有家村桜馬場の集落に住む矢矩鍬ノ介、「寿安」という呼称で知られる19歳の青年が、心に怒りを秘めたまま、かつて教会堂が建てられていた「ミゲルの森」に籠もってしまう。それを伝え聞いた「傷寒」に罹っていない子供たちが次々に後を追うように森に入る。そしてミゲルの森の教会堂跡に若衆宿のような集いを形成する。赤いクルスを額に描き込み、徒党を組んで行動を始めるのだ。
 ある夜の有家代官所の火災が契機となり、代官所はその原因が寿安らの集団にあるとし、キリシタン宗復活の企てだと責任転嫁を始める。寿安が首謀者とみなされ、代官所と森に集う集団との争いに発展していく。
 そして、棄教した甚右衛門が、25年もの歳月を経て、「集会の儀」の初めに歌われる『詩編』の一節を歌声として口ずさむことになる。なぜ、何のためらいもなく歌声が甚右衛門の内から漏れ出すに到るのかの経緯がこの前半で描き出される。

 第2部は、陰暦10月10日から原城落城まで。及びその後日潭を描く。
 有馬の旧日野江城跡に終結した南目各村の7人の庄屋が「聖餐杯の井戸」のひとつの場所で誓約を交わし、一揆に立ち上がる。松倉家の島原・森岳城との戦いの始まりである。そして、天草との連合、島原・原城跡を拠点とする籠城戦へと展開していく。
 第2部は、この戦いの経緯が、松倉家初め周辺の九州諸大名の思惑、長崎奉行の対応、江戸幕府の実態などを絡めながら、戦の進展プロセスのなかで微細にそして克明に描き込まれていく。通常、島原の乱と呼ばれるものが、どんな戦であったのか、本書を読むとリアルに感じとれる。筆者は執拗なまでに、その戦の経過を描き出して行く。圧巻である。
「キリシタンに立ち戻った彼ら彼女らが武装蜂起に踏み切ったからには、単なる一時の感情任せのものではなく宗教倫理に裏付けされたものとなる。そこでの死は、再生を約束する殉教となり、結果死さえも恐れないことになる。女、子ども、老人にいたるまで、のもとにおける平等と人としての権利を求め、戦におびえるどころか、むしろ進んで死を選ぶ。」(p394)
「幕府の圧力が強まれば強まるほど、蜂起勢のキリシタン宗への傾斜は強まる。ひたすら教義のために死ぬことばかりが救いとなり後戻りはきかなくなる。」(p413)
と、著者は書いている。

 松倉家の圧政とそれへの南目の大人達の対応に内なる怒りを抱き森に入るという道を選び、争いの渦中に踏みだした寿安。朝鮮出兵の戦の中で争いの無惨さ、無益さを痛感し、争いを避けるためには圧政にもできうる限り耐え忍ぶという道を選んだ甚右衛門。その両者が、島原の一揆の過程で逆転していく。の道への聖戦を志向して、現実とぶつかり、幻滅して争いの渦中から抜け出て行く寿安に対し、キリシタンの教義の下に己の信仰を復活させるが、戦の現実を受け入れ、戦いのリーダーとしての道を結局選択し突き進んでいく甚右衛門。第2部は、その甚右衛門を基軸にし、様々な思いを抱く一群の人々が連合した対幕藩体制との戦いの展開である。
 戦の渦中を抜け出した寿安は、ある経緯を経て、長崎の恵舟の許に「傷寒」の薬を入手するために出かけて行く。そして、長崎の子供の中に蔓延を始めた赤斑瘡の医療対応に苦慮する恵舟の手助けをすることになる。寿安の新たな道の始まりでもあった。

 天草・島原の乱として天草四郎が登場するが、本書では脇役にすぎない。この描き方に、著者の見識と視点が表されているように思う。
 第2部には、著者の視点が書き込まれているように思う。例えば、
*すべては将軍の大名統制のための一方的な国替えに端を発していた。それに加えてやっかいなのは、自らの悪政を顧みもせずキリシタンと言えばすべて賊徒として位置づけられることをあてにした松倉勝家とその重臣たちの安直な発想が、逆にキリシタンへの復帰による結束を協力に推し進め、迫害に耐え生きることからの殉教へと方向を変えてしまったことだった。 p407
*この度の一斉蜂起は、佐賀藩鍋島家にとって関が原戦での汚名を返上するまたとない好機の到来を意味した。関が原の戦いにおいて藩主鍋島勝茂は石田三成の西軍に与し、伏見城攻撃に始まって伊勢の安濃津城、松坂城攻めを敢行した。そのぬぐい去れない汚点を依然引きずったままだった。 p419
*キリシタンはキリシタンである。オランダ人から武器弾薬を供与されるなどということは、これまでのキリシタン弾圧の大前提としてきた論理を幕府自ら覆すことにほかならない。 p432
*討伐軍の攻撃は、濱田新蔵ら長崎町衆のカルバリン砲による連日十発の砲撃とあわせ、直接鎮圧にあたるべき討伐軍とは無関係なオランダ人と長崎町民によって行われるという奇妙なものだった。 p490
 著者は、幕府側の諸藩が自藩の思惑だけで行動する樣を、執拗に描き込んでいる。「古来より戦というものは、勃発してしまえば独り歩きを始め、当初掲げられた意義などどこかへ消え失せて、結局は自国の民を大量に殺すだけのことである」(p491)と書く。筆者が執拗なほどに描き込んだこの島原の乱は、その証明とも言える。それはまた、籠城している人々についての次の記述からも窺える。
*二の丸出丸跡での銃声は響いて来たが、海岸で糧をあさる者たちは、空腹を満たすことが先決となっていた。長く続く空腹と疲労は蜂起勢の精神をも消耗させ、城跡に籠もった当初の理念も以前の危機感もすっかり薄らいでいた。蜂起勢は内部から崩壊が進んでいた。 p520

 エピローグは、島原の乱から10年後、一人の医家が大坂で開業したエピソードを簡潔に描く。逃禅堂北山友松と名乗り、長崎生まれでオランダ人の血が混じっているという。大坂でも寿安と呼ばれたという。七十余年の天寿を全うしたと記している。

 最後に、心に残る章句をいくつか引用しておきたい。
*思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことである。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない。  p212
*いざ松倉軍を打ち負かしてみたら、何かが変わるどころか逆に民による手の付けようもない暴動が引き起こされただけのことだった。当初の理念など状況が変われば簡単に棄てられ、あとは小人の我欲に任せた略奪があるばかりとなる。憂き世とはそうしたものだ。しかし、おのれの信じた人という生き物が、おのれが思うほどの意志と自制とを備えた強い存在ではなかったと認めることは、この若者にとってつらいことだったにちがいない。*恵舟も秀助も、蜂起直前の有家に出向き、そこでの破壊された民の暮らしぶりをつぶさに見ていた。すべての原因は、大名を厳しく統制し、結果として民の暮らしを破壊して顧みない幕藩体制の欠陥にあった。もちろん、たび重なる弾圧に対するキリシタンの反乱などという宗教的理由だけで起こるはずもなかった。対幕府向けにキリシタンの蜂起というすり替えを行うため、早くから首謀者としてジェロニモ四郎の名を盛んに口にしたのは、むしろ松倉の家臣たちだった。  p531


ご一読ありがとうございます。

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本書に関わる語句をいくつかネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。

島原の乱雑記 坂口安吾 :「青空文庫」

島原の乱 :ウィキペディア

原城(南島原市南有馬町乙原城):「余湖のホームページ」
原城跡  :YouTube

肥前・島原城(森岳城) :「日本の城・日本名城事典」
南島原市 :ウィキペディア

天草四郎 :ウィキペディア
 [付記]本作品で著者は「ジェロニモ四郎」の表記のみ使っている。「フランシスコ」の呼称を使わなかったのはなぜだろう。気になる点だ。
天草四郎 :「熊本歴史・人物 散歩道」
島原・天草の道(長崎県観光)  :YouTube
KIBS「天草四郎には妻がいた!? 伝説と謎に包まれた美少年の素顔」:YouTube

長崎奉行 :ウィキペディア

安堂寺橋から松屋町筋くだって高津さんへ :「sampodowの日記」

北山寿安 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
 [付記]本作品で著者の設定した「寿安」との大きな差異点がある。エピローグの著者の締めくくりかたは、単なるフィクションなのだろうか。興味深い論点として残る。
北山友松子 

キリシタン時代のカテキズム教育の宣教的効果と今日的意味  辻井玲子氏

Kakureの歴史[カクレキリシタン] :「長崎の教会群その源流と輝き」
隠れキリシタン
キリシタン用語集


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