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『孟子』巻二梁惠王章句下 第二十二節、二十三節

2016-08-01 12:05:42 | 漢文解読
                         第二十二節
滕の文公が孟子に尋ねた、
「滕は小国である。国を挙げて大国に仕えても、その侵略から免れることはできそうにない。どうしたらよかろうか。」
孟子は答えた、
「昔、周の大王(古公亶)は邠に居られましたが、異民族が侵入してきました。そこで大王は、毛皮や絹を献上しましたが、侵略を免れることはできませんでした。次いで犬や馬を献上しましたが駄目でした。更に珠や玉の宝石類を献上しましたが、やはり駄目でした。そこで大王は一族の長老たちを集めてお告げになりました、『彼らが望んでいる物は、我が土地である。私はこういうことを聞いている、君子たる者は、人を養う為の物、乃ち土地の為に争って、人を傷つけることはしないものだと。お前たちは私が去ったとしても、君主がいないと云って心配することはない。次の君主が来るのだから。私はここを去ろうと思う。』こうして邠を去り、梁山を越えて、岐山の麓に邑を作り、そこに落ち着きました。すると邠の人々は、あの方こそ仁徳の君主だ。この君を失うことはできない、と言って、大王に従って、まるで市場に出かけるように、ぞろぞろと附いて行きました。これは一つの考え方です。一方、土地は、代々守り継がれてきたものであって、自分の一存で棄て去ることが出来るものではない。たとえ死んでも立ち去るな、と言う考えもございます。王様、どうかこの二つの中から一つをお選びください。」

滕文公問曰、滕小國也。竭力以事大國、則不得免焉。如之何則可。孟子對曰、昔者大王居邠。狄人侵之。事之以皮幣、不得免焉。事之以犬馬、不得免焉。事之以珠玉、不得免焉。乃屬其耆老而告之曰、狄人之所欲者、吾土地也。吾聞之也。君子不以其所以養人者害人。二三子何患乎無君?我將去之。去邠、踰梁山、邑于岐山之下居焉。邠人曰、仁人也。不可失也。從之者如歸市。或曰、世守也。非身之所能為也。效死勿去。君請擇於斯二者。

滕の文公、問いて曰く、「滕は、小國なり。力を竭くして以て大國に事うるも、則ち免るるを得ず。之を如何せば則ち可ならん。」孟子對えて曰く、「昔者、大王、邠に居る。狄人、之を侵す。之に事うるに皮幣を以てすれども、免るるを得ず。之に事うるに犬馬を以てすれども、免るるを得ず。之に事うるに珠玉を以てすれども、免るるを得ず。乃ち其の耆老を屬(あつめる)めて、之に告げて曰く、『狄人の欲する所の者は、吾が土地なり。吾、之を聞く。君子は人を養う所以の者を以て人を害せずと。二三子、何ぞ君無きを患えん。我將に之を去らんとす。』邠を去り、梁山を踰え,岐山の下に邑して居る。邠人曰く、『仁人なり、失う可からざるなり。』之に從う者、市に歸(おもむく)くが如し。或いは曰く、『世々の守りなり。身の能く為す所に非ざるなり。死を效すも去る勿れ。』君請う斯の二者を擇べ。」

<語釈>
○「珠玉」、「珠」は真珠等の海から取れるもの、「玉」は玉石などの山から取れるもの。「珠玉」で宝石類。○「耆老」、『禮記』に、六十を耆(キ)と曰い、七十を老と曰う、とある。ここでは「耆老」で一族の長老の意。

<解説>
趙岐の章指を舉げる、
「大王の邠を去るは權なり。死を效して業を守るは義なり。義・權は並ばず。故に擇びて之に處ると曰う。」
この「權」と「義」については、朱子が以下の如く述べている。
「蓋し國を遷して以て存を圖るは權なり。正を守りて死を俟つは義なり。己を審らかにして力を量り、擇びて之に處るは可なり。」

                             第二十三節
魯の平侯が出かけようとした。お気に入りの近臣の臧倉という者が、公に尋ねた。
「これまで殿さまはお出かけになる時は必ず係りの役人に行く所をお告げになりました。ところが今、お車に乗られ、馬も繋がれて出発の準備が整っていますのに、係りの役人は未だどこへ行くのか伺っておりません。是非お聞かせくださいませ。」
平侯は言った、
「孟子に会いに行こうと思う。」
「何ということでございますか。貴い身分でありながら軽々しく一平民にこちらから先にお訪ねになるのは、相手が賢者だと思し召すからでございますか。しかし賢者というのは行いが全て礼儀に適っているものでございますが、孟子の母の葬儀は、以前の父の葬儀よりも立派にするという礼儀に外れたものでございました。とても賢者とは言えませんので、殿様、どうかお会いになるのはお辞めください。」
平侯は言った、
「分かった。」
孟子の弟子で、魯の臣である樂正子が平侯に謁見して言った、
「殿様、どうして孟軻にお会いにならないのでございますか。」
「孟子の母の葬儀を、先に亡くなった父の葬儀よりも立派にするという礼儀知らずの人間だと告げる者がいたので、遇いに行かなかったのだ。」
「殿様の仰せになられる立派とは、どういうことでございますか。前には士の禮を用い、後には大夫の禮を用い、前には供物が三鼎で、後には五鼎であったことをおっしゃておられるのでしょうか。」
「いや、そうではない。棺やそれを入れた外棺、衣類や夜着が父の時以上に立派にしたと言うことだ。」
「それは世に謂う踰えたとは申しません。今と当時とでは貧富の程度が違うのですから。」
樂正子は孟子に会って言った、
「私は、殿さまに先生の事を申し上げ、殿様もお会いになろうとされたのです。ところがお気に入りの近臣の臧倉と言う者が、殿様を止めたのです。その為に殿さまは先生にお会いするのをお止めになられました。」
「人が行くときは、そうさせるものがあり、止まるときも止めさせるものが有る。行くも止まるも人の力で勝手にできるものではない。私が魯侯にお会いできなかったのは、天命なのだ。臧氏の小人ごときが、どうして私が魯侯にお会いするのを妨げることが出来ようか。」
 
魯平公將出。嬖人臧倉者請曰、他日君出、則必命有司所之。今乘輿已駕矣。有司未知所之。敢請。公曰、將見孟子。曰、何哉。君所為輕身以先於匹夫者、以為賢乎。禮義由賢者出。而孟子之後喪踰前喪。君無見焉。公曰、諾。樂正子入見、曰、君奚為不見孟軻也。曰、或告寡人曰、孟子之後喪踰前喪。是以不往見也。曰、何哉。君所謂踰者。前以士、後以大夫、前以三鼎、而後以五鼎與。曰、否。謂棺槨衣衾之美也。曰、非所謂踰也。貧富不同也。樂正子見孟子、曰、克告於君。君為來見也。嬖人有臧倉者沮君。君是以不果來也。曰、行或使之、止或尼之。行止所能也。吾之不遇魯侯、天也。臧氏之子焉能使予不遇哉。

魯の平公將に出でんとす。嬖人臧倉なる者請うて曰く、「他日、君出づれば、則ち必ず有司に之く所を命ず。今、輿に乘り已に駕す。有司未だ之く所を知らず。敢て請う。」公曰く、「將に孟子を見んとす。」曰く、「何ぞや。君の為す所、身を輕んじて以て匹夫に先だつとは。以て賢と為すか。禮義は賢者由り出づ。而るに孟子の後喪は前喪に踰えたり。君、見る無かれ。」公曰く、「諾。」樂正子、入り見えて曰く、「君、奚為れぞ孟軻を見ざるや。」曰く、「或ひと寡人に告げて曰く、『孟子の後喪は前喪を踰えたり。』是を以て往きて見ざるなり。」曰く、「何ぞや。君の所謂踰ゆとは。前には士を以てし、後には大夫を以てし、前には三鼎を以てし、後には五鼎を以てしたるか。」曰く、「否。棺槨衣衾の美を謂うなり。」曰く、「所謂踰ゆるには非ざるなり。貧富同じからざればなり。」樂正子、孟子に見えて曰く、「克、君に告ぐ。君、來たり見んと為す。嬖人に臧倉なる者有り、君を沮む。君是を以て來たることを果たさざるなり。」曰く、「行くも之を使しむる或り、止まるも之を尼むる或り。行止は人の能くする所に非ざるなり。吾の魯侯に遇わざるは、天なり。臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」

<語釈>
○「嬖人」、寵愛している近臣。○「後喪・前喪」、前喪は先に亡くなった父の葬儀、後喪は後で亡くなった母の葬儀。○「樂正子」、趙注:孟子の弟子なり、魯の臣と為る。名は克、後文に出てくる。○「孟軻」、孟子の名。○「棺槨」、「棺」は、ひつぎ、「槨」は、棺を入れる外側の棺。○「衣衾」、「衣」は衣類、「衾」は夜着。○「尼」、「止」の義に読む。

<解説>
この章の趣旨は、最後の「天なり。」に尽きる。朱子も、此の章は、聖賢の出處は時運の盛衰に關る、乃ち天命の為す所は、人力の及ぶ可きに非ずを言う、と述べている。
最後の、「臧氏の子、焉ぞ能く予をして遇わしめざらんや。」という言葉は、孟子の人間性を表しているような気がする。