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『孟子』巻第十二告子章句下 百六十三節、百六十四節

2019-02-27 10:23:15 | 四書解読
百六十三節

公孫丑が尋ねた。
「高子は、『詩経』の小弁の詩はつまらない男の作ったものだ、と言っておりますが。」
孟子は言った。
「どうしてそう言っているのか。」
「親の過ちを怨んでいるからです。」
「偏狭だね、高老先生の詩の学び方は。今、ここに一人の男がいるとして、越人に弓で殺されかけたことがあったとして、後日、こんなことがあったよ、と話すのに、男は笑いながら言うだろう。それは外でもない、相手が疎遠な人物だからだ。ところが自分の兄が弓で殺そうとしたのなら、後日人に話すのに、涙を流しながら語るだろう。それは外でもない、相手が肉親だからである。小弁の詩が親を怨んでいるのは、親に親しみを懐いているからこそ、親の過失を哀れみ恨みに思うのだ。その親を思い愛する心が仁なのだ。偏狭だね、高老先生の詩の学び方は。」
「では『詩経』の凱風の詩では、なぜ母親を怨まないのですか。」
「凱風の親の過失は小さいもので、小弁の親の過失は大きい。親の過ちが大きいのに、平然として怨まないでいれば、ますます親を疎んじることになる。親の過ちが小さいのに怨むのは、それとなく諫めることもせずに見捨てることだ。疎んずることも親不孝であるが、見捨てるのも亦た親不孝である。孔子も、『舜は親孝行の鏡だ、五十になっても親を慕ったのだから。』と言っておられる。」

公孫丑問曰:、高子曰、小弁、小人之詩也。孟子曰、何以言之。曰、怨。曰、固哉、高叟之為詩也。有人於此。越人關弓而射之、則己談笑而道之。無他。疏之也。其兄關弓而射之、則己垂涕泣而道之。無他。戚之也。小弁之怨、親親也。親親、仁也。固矣夫、高叟之為詩也。曰、凱風何以不怨。曰、凱風、親之過小者也。小弁、親之過大者也。親之過大而不怨、是愈疏也。親之過小而怨、是不可磯也。愈疏、不孝也。不可磯、亦不孝也。孔子曰、舜其至孝矣。五十而慕。

公孫丑問うて曰く、「高子曰く、『小弁は小人の詩なり。』と。」孟子曰く、「何を以てか之を言う。」曰く、「怨みたればなり。」曰く、「固なるかな、高叟の詩を為むるや。此に人有り。越人、弓を關きて之を射んとせば、則ち己談笑して之を道わん。他無し。之を疏ずればなり。其の兄、弓を關きて之を射んとせば、則ち己涕泣を垂れて之を道わん。他無し。之を戚めばなり。小弁の怨めるは、親を親しめばなり。親を親しむは、仁なり。固なるかな、高叟の詩を為むるや。」曰く、「凱風は何を以てか怨みざる。」曰く、「凱風は、親の過ち小なる者なり。小弁は、親の過ち大なる者なり。親の過ち大にして怨みざるは、是れ愈々疏ずるなり。親の過ち小にして怨むは、是れ磯す可からざるなり。愈々疏ずるは、不孝なり。磯す可からざるも、亦た不孝なり。孔子曰く、『舜は其れ至孝なり。五十にして慕う。』」

<語釈>
○「小弁」、『詩経』の小雅節南山之什小弁篇。父が後妻の子を愛し、自分を棄てたことを怨んだ詩。○「怨」、趙注:怨むは、親の過ちを怨むなり。○「高叟」、「叟」は老人、高叟は、高老先生の意。○「道之」、「道」は、「曰」なり、「道之」は、弓を射る人に止めなさいと言う、と解釈する説と、後日こんなことがあったよと人に話した、と解釈する説がある。殺そうとする人に笑いながら止めなさいなどと言うのは、私には不自然に思えるので後説を採用した。○「凱風」、『詩経』邶風の凱風篇。母親が夫の死後再婚しようとしたとき、子供たちが母親を責めずに、孝行が足りなかったと自らを責めた詩。○「不可磯」、「磯」は、趙注、朱注は「激」の意に解釈し、焦循は、「磯」は「幾」で、幾諫、遠回しに諫める意であるとする。焦循説を採用する。

百六十四節

宋牼が楚に行く途中、石丘で孟子に出会った。孟子は言った。
「先生はどちらへお出かけですか。」
「私は秦と楚とが兵を構えて戦おうとしていると聞いたので、楚王にお目にかかって、止めるように説得するつもりです。楚王が聞き入れなければ、秦王にお会いして、止めるように説得するつもりです。二王のうちどちらかは私に賛成してくれるものと思ってます。」
「詳しくはお聞きしませんが、できれば要点だけでもお聞かせ願えませんか。」
「私は戦争がいかに利益にならないかを説こうと思っている。」
「先生のお志は大変立派でございますが、その呼びかけは不可能でしょう。先生が利益をもって秦・楚の王を説得し、秦・楚の王も利益につられて先生の説得を喜んで受け入れて軍を収めたら、全軍の将兵たちは戦争の終わったことを楽しむも、利益をも悦ぶことになりましょう。かくして臣下は利益を考えて君に仕え、子供は利益を考えて親に仕え、弟は利益を考えて兄に仕えるようになると、君臣・父子・兄弟はついに仁義の心を捨て去り、利益だけを考えて互いに接触するようになるでしょう。こうなってしまって亡ばなかった国はこれまでにありません。しかし先生が仁義を以て秦・楚の王を説得し、王たちも仁義の心を喜んで受け入れ戦争を止めたなら、全軍の将兵たちも戦争の終わったことを楽しみ、仁義を悦ぶことになりましょう。かくして臣下は仁義の心で君に仕え、子供は仁義の心で親に仕え、弟は仁義の心で兄に仕えるようになると、君臣・父子・兄弟はついに利益を捨て去り、仁義だけを考えて互いに接触するようになるでしょう。そうなって天下の王者とならなかった者は、これまでございません。どうして利益などで説得する必要がありましょうか。」

宋牼將之楚,孟子遇於石丘。曰:「先生將何之?」曰:「吾聞秦楚構兵,我將見楚王說而罷之。楚王不悅,我將見秦王說而罷之,二王我將有所遇焉。」曰:「軻也請無問其詳,願聞其指。說之將何如?」曰:「我將言其不利也。」曰:「先生之志則大矣,先生之號則不可。先生以利說秦楚之王,秦楚之王悅於利,以罷三軍之師,是三軍之士樂罷而悅於利也。為人臣者懷利以事其君,為人子者懷利以事其父,為人弟者懷利以事其兄。是君臣、父子、兄弟終去仁義,懷利以相接,然而不亡者,未之有也。先生以仁義說秦楚之王,秦楚之王悅於仁義,而罷三軍之師,是三軍之士樂罷而悅於仁義也。為人臣者懷仁義以事其君,為人子者懷仁義以事其父,為人弟者懷仁義以事其兄,是君臣、父子、兄弟去利,懷仁義以相接也。然而不王者,未之有也。何必曰利?」

宋牼(ケイ)將に楚に之かんとす。孟子、石丘に遇う。曰く、「先生將に何くに之かんとす。」曰く、「吾、秦・楚兵を構うと聞く。我將に楚王に見えて、說きて之を罷めしめんとす。楚王悅ばざれば、我將に秦王に見えて、說きて之を罷めしめんとす。二王の、我將に遇う所有らんとす。」曰く、「軻や請う、其の詳を問う無きも、願わくは其の指を聞かん。之を說くこと將に何如せんとする。」曰く、「我將に其の不利を言わんとす。」曰く、「先生の志は則ち大なり。先生の號は則ち不可なり。先生、利を以て秦・楚の王に説き、秦・楚の王、利を悅び、以て三軍の師を罷めば、是れ三軍の士、罷むるを樂しんで利を悅ばん。人の臣為る者利を懷いて以て其の君に事え、人の子為る者利を懷いて以て其の父に事え、人の弟為る者利を懷いて以て其の兄に事えば、是れ君臣・父子・兄弟、終に仁義を去り、利を懷いて以て相接するなり。然り而して亡びざる者は、未だ之れ有らざるなり。先生、仁義を以て秦・楚の王に説かんに、秦楚の王、仁義を悅び、而して三軍の師を罷めば、是れ三軍の士、罷むるを樂しんで仁義を悅ばん。人の臣為る者仁義を懷いて以て其の君に事え、人の子為る者仁義を懷いて以て其の父に事え、人の弟為る者仁義を懷いて以て其の兄に事えば、是れ君臣・父子・兄弟、利を去り、仁義を懷いて以て相接するなり。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。何ぞ必ずしも利と曰わん。」

<語釈>
○「宋牼」、趙注:宋牼は宋人なり、名は牼、學士にして年長者、故に之を先生と謂う。孟子より年長者だったので、孟子は敬して彼を先生と呼んだ。○「號」、服部宇之吉氏云う、號とは構兵の不可を稱する名號即ち旨趣をいう。兵を止めるようにとの呼びかけ。

<解説>
相手を説得するのに、利をもって説いてはならない、というのが孟子の主張である。理想主義者の孟子にとっては当然の主張であろう。だが実際には利益を以て説得する方がはるかに有効である場合もある。相手を説得する場合は、臨機応変に対応すべきであるというのが、今の我々の感覚であろう。