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『孟子』巻十一告子章句上 百五十七節、百五十八節、百五十九節、百六十節

2019-02-13 10:19:17 | 四書解読
百五十七節

孟子は言う。
「貴くなりたいと願うのは、誰もが同じ気持ちであり、誰もが自分自身の中に仁義廣譽という貴いものを持っている。ただそれに気づかないだけである。世俗の人が貴いとしているのは富貴であって、それは本来の貴さではない。晉の権力者趙孟が与えた地位や富という貴さは、趙孟自身の手により賤しくされるものである。『詩経』の既酔篇に、『酔うほどに酒はいただきました、徳も飽きるほどです。』とあるが、これは仁義の徳に満ち足りて満足していることを言っているのだ。人は仁義の徳に心が満たされば、肥えた肉やおいしい穀物もそれほどほしいとは思わなくなる。又よい評判や広く知られた名誉が、わが身を覆うので、縫い取りを施した美しい衣服も欲しいとは思わなくなるのである。」

孟子曰、欲貴者、人之同心也。人人有貴於己者、弗思耳。人之所貴者、非良貴也。趙孟之所貴、趙孟能賤之。詩云、既醉以酒、既飽以德。言飽乎仁義也。所以不願人之膏粱之味也。令聞廣譽施於身。所以不願人之文繡也。

孟子曰く、「貴きを欲するは、人の同じき心なり。人人己に貴き者有り、思わざるのみ。人の貴くする所の者は、良貴に非ざるなり。趙孟の貴くする所は、趙孟能く之を賤しくす。詩に云う、『既に醉うに酒を以てし、既に飽くに德を以てす。』仁義に飽くを言うなり。人の膏粱の味を願わざる所以なり。令聞廣譽、身に施く。人の文繡を願わざる所以なり。」

<語釈>
○「有貴於己者」、趙注:己に在る者は、仁義廣譽なり。○「詩」、『詩経』大雅の生民之什既酔篇。○「膏粱」、朱注:「膏」は、肥肉、「粱」は、美穀。○「令聞廣譽」、「令」は「善」、「令聞」は、よい評判。「廣譽」は、広く知られた名誉。○「文繡」、美しく縫い取りを施した衣服。

<解説>
趙孟の例で言われているように、人より与えられたものは、人により奪われるものである、ということは、常に考えておかなければならない大切なことである。だがそれは人より与えられたものがすべて悪いということではない。努力をして人から与えられることもある。大事なことは常に己を正しく見つめていることであろう。

百五十八節

孟子は言う。
「仁が不仁に打ち勝つのは、水が火に勝つ様なものだ。だが、今の仁を行う人は、一杯の水によって車一台に積まれた薪の火を消そうとするようなものである。消えないのは当然であるのに、消えなければ水は火に打ち勝つことはできないと言う。これでは、仁を行うどころか、不仁に味方することがはなはだしい。ついにはわずかばかりの仁すらも失ってしまうだろう。」

孟子曰、仁之勝不仁也、猶水勝火。今之為仁者、猶以一杯水、救一車薪之火也。不熄、則謂之水不勝火。此又與於不仁之甚者也。亦終必亡而已矣。

孟子曰く、「仁の不仁に勝つは、猶ほ水の火に勝つがごとし。今の仁を為す者は、猶ほ一杯の水を以て、一車薪の火を救うがごときなり。熄まずんば、則ち之を水は火に勝たずと謂う。此れ又不仁に與するの甚しき者なり。亦た終に必ず亡せんのみ。」

<解説>
百五十三節では事の軽重を知ることを説き、百五十四節では事の大小を判別することの大切さを説いており、これらと合わせてこの節を読めばより深く理解することが出来る。

百五十九節

孟子は言う。
「五穀は種子の中では上等なものであるが、熟していなければ、それより下のひえの類のほうがまだましだ。それと同じで仁も成熟したところにその価値があるのだ。」

孟子曰、五穀者、種之美者也。苟為不熟、不如荑稗。夫仁亦在乎熟之而已矣。

孟子曰く、「五穀は、種の美なる者なり。苟くも熟せずと為さば、荑稗(テイ・ハイ)に如かず。夫れ仁も亦た之を熟するに在るのみ。」

<語釈>
○「荑稗」、朱注に、荑稗は草の穀に似たる者なり、其の實も亦た食す可し、とあり、「荑」(テイ)は、いぬびえ、イネ科の一般的な雑草、「稗」は、ひえ。

<解説>
論旨は前節と同じである。

百六十節

孟子は言う。
「古の弓の名人である羿が人に弓を教えるときは、必ず弓を引き絞り矢を放つ頃合いを主として教え、学ぶ者もそれを中心に学んだ。大工がその技術を人に教えるときは、コンパスや定規の使い方を中心に教え、学ぶ者もそれを中心に学んだ。聖人の道を学ぶのも同じことで、必ず学ぶべき中心がある。」

孟子曰、羿之教人射、必志於彀。學者亦必志於彀。大匠誨人、必以規矩。學者亦必以規矩。

孟子曰く、「羿(ゲイ)の人に射を教うるには、必ず彀(コウ)に志す。學者も亦た必ず彀に志す。大匠の人に誨うるには、必ず規矩を以てす。學者も亦た必ず規矩を以てす。」

<語釈>
○「羿」、趙注:羿(ゲイ)は、古の射を工みにする者なり。○「彀」、朱注:「彀」(コウ)は、弓、満つなり、満ちて而る後に發す、射の法なり。弓を引き絞り、発射のタイミングを大事にする射の技方。○「學者」、趙注:學者は、道を志すもの。朱注:學ぶ、射を學を謂う。どちらの説を採用するか迷う所である。取り敢えず朱注を採用しておく。○「大匠」、大工。○「規矩」、「規」は、ぶんまわし、コンパス、「矩」は定規。

<解説>
弓射の技術、大工の技術には、みな中心となる学ぶべきものが有る、道を学ぶのも同じことで、中心的に学ぶべきことがある。それは古の聖人の教えである、と言うのがこの節の趣旨であろう。服部宇之吉氏の解釈が面白いので、紹介しておく。「射法の秘訣は弓を張る時に在り、張ることその道に適えば自ら的に中ることを期すべし、弓を張るは天爵を修むるに似たり、的に中るは人爵を得るに似たり、既に天爵を修むれば人爵自ら之に從う。」