「諸戸氏庭園」(名勝庭園)は、「六華苑」に隣接してあります。実は六華苑も「旧諸戸清六邸」の名を冠しているのです。
そこでまずは、両諸戸邸のルーツから。
この土地は室町時代に、織田家家臣だった矢部氏の館があり、「江の奥殿」と呼ばれていたところ。江戸時代、17世紀後半に、豪商・山田彦左衛門が別邸として、ここを買い取り、庭園を拡張整備しました。
明治17年(1884)、庭園は米穀業により一代で財を築いた初代諸戸清六の手に移り、御殿と池庭が付け加えられました。
初代没後、土地財産は2つに分けられ、家屋敷は次男・清太が相続、二代目清六は、四男が襲名、家業を受け継いだということです。その後、それぞれに手を加えたものが、現在の「諸戸氏庭園」であり「六華苑」というわけです。
現在の管理は、前者が財団法人諸戸会、後者は桑名市によって行われています。
六華苑の裏手に回るように歩いて行くと、運河に面して重厚な佇まいを見せているのが、「諸戸氏庭園」の入口に当たる薬医門と本邸。脇には、米蔵として使われた煉瓦蔵が3棟並んでいます。
(上: 店舗と住宅から成る諸戸氏本邸のどっしりとした外観)
本邸は、黒漆喰塗りの土蔵造り2階建て。太い格子窓や2階の虫籠窓にも風情がある明治22年の建築。店舗と住居で構成されているものの、公的な部分と私的な部分とが、明確に区分されているところが、前時代の店舗建築との違いとか。
薬医門をくぐった先に御殿玄関。その手前には、芝生の築山と巨石で構成された車廻しがあり、そこに日露戦争で使用された砲弾が飾ってあるのが目を引きます。
(上: 日露戦争時の砲弾が据えられている前庭)
戦争時に軍用米を提供していたために、戦勝記念として賜ったものということで、そんなところからも、当時の諸戸家の財力、社会的地位が窺われます。
「諸戸氏庭園」(名勝庭園)は、大きく2つの部分に分かれています。東側半分は、菖蒲池を中心に構成され、江戸期の山田彦左衛門時代から伝わるものです。
(上: 諸戸氏庭園の原型を今に残す菖蒲池部分)
当時はハナショウブの代わりにカキツバタが植えられていたようですが、八ツ橋や蘇鉄山、あるいは藤棚のある藤茶屋などが点在しています。
手前の一段高い所にある草庵「推敲亭(すいこうてい)」もまた江戸時代のもの。表千家六代・覚々斎宗左の作と伝わり、三畳に小ぶりの出床を巡らし、三方を障子戸にした開放的な造りで、月を眺めながら詩歌を「推敲」したところから名付けられたとか。
西側は、明治時代に拡張した部分。「御殿」と池庭で構成されています。御殿は木造平屋入母屋造り。西本願寺をモデルにしたといわれるだけに、どっしりと豪快で、堂々とした構えですが、床がかなり高くなっているために、圧迫感はありません。その高さに合わせて据えられた縁先手水鉢は、下からだと見上げるほどの巨石。
(上: 高い床が特徴的な御殿)
前面の池は、琵琶湖を模したということで、竹生島に見立てた岩を配し、鳥羽や志摩から運んできた青石などの巨石と、枝振りの良いマツが景色をつくっています。
(上: 琵琶湖を模し、右手の岩を竹生島に見立てている)
池畔に玉石を敷き詰めた州浜は、2段になった護岸石組。この庭は、もともと水田を埋め立ててつくった低い土地のため、揖斐川の干満に応じて水位が変化する潮入りの庭としての趣向が凝らされていたのです。
(上: 池越しに州浜と御殿を眺める)
東京から浜離宮などを手がけた宮内省の技師を招いて、設計を依頼したということ。現在は水門が閉じられているので、干満により、州浜が見え隠れしていたという風情は幻のものとなってしまいました。
(上: 巨石と枝振りの良いマツが、豪壮な御殿建築を引き立てている)
御殿の隣には、小規模ではありますが、洋館と玉突き場の建物が並んでいます。どちらも当時の上流階級のステイタス・シンボル。しかし、保存状態は芳しくなく、非公開です。十分に手入れが行き届いているとは言えない現状でも、非常に見応えのある庭園なので、他の非公開箇所を含め、今後はさらに整備を進めていただきたいものです。
(上: 巨石を配した石組)
* 諸戸氏庭園は、毎年、春秋の期間限定公開です。今年の秋の拝観は、11月 3日(土)~12月2日(日)になっています。詳しくは、公式サイトをご参照ください。
*記事は、何年か前の訪問時の姿に基づいています。多少、変わっているところがあるかもしれません。ご了承ください。