20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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秩父のこと

2024年08月28日 | Weblog
            

秩父に住んでいる父方の従兄弟の健ちゃんが、秩父で山登りした写真と、添付で、残暑お見舞いのお手紙を送ってくれました。(上の写真・健ちゃん撮影)

先日、私が姉と革新館という、洋画専門の映画館に「太陽がいっぱい」などを見に行った話をblogで書いたのを読んだようで、
「おじさんとジュンコちゃんと、昭和館で、キム・ドンも見たよね」と。

ああ「キム・ドン」。ベトナムの映画です。

私は、小さい頃からのディテールも覚えていて、自分でも、記憶力がいい人間だと思っています。

それ以上に、健ちゃんも記憶力がいいし、頭脳明晰です。

父方の従兄弟の健ちゃん、母方の従兄弟のOちゃん。二人とも同級生で大学生だった頃。夏休みに、その二人と私、3人で読書会などをやっていたので、余計、つながりが従兄弟の中でも、深かったのだと思います。

その日のblogで書いたえっちゃんと、大川橋蔵を見に行ったという話から思い出した話。
映画が終わる頃、まだ大学を卒業したばかりで、県立高校の先生をしていた、お隣に住んでいた、親戚のK兄さんという人がいました。
K兄さんの母親であるおばさまが、父と従兄弟でした。
それで、お隣に住んでいました。妹のM姉さんはすでに東京に嫁いでいました。おじさまはお亡くなりになっていました。

映画が終わる頃、背中をトントンとたたかれました。振り向くと、
「ジュンコ、迎えにきたから。学校が終わってから映画に行ったらしいから、帰りが暗くなって心配と、兄さんに(私の父のこと)に頼まれて、迎えにきたよ」と。映画館を出ると、外は真っ暗でした。
えっちゃんちは、映画館の前が自宅です。秩父では有名な陶器屋さんです。

K兄さんは、県立高校の先生でしたが、まだ若くて、
「ジュンコ、今度、日曜にテニスを教えてあげる。スキーを教えてあげる」と、歳の離れた本当の兄のように優しい人でした。

父は、時代劇専門の、あの映画館に入るのをプライドが許さなかったのでしょう。それで、K兄さんに私のお迎えを頼んだのです。

健ちゃんの手紙から、その話を、夜に夫と話していたら、
「秩父のお父さんは、すごい人だったよね。村上春樹なんて、僕だってまだ読んだこともないのに、お父さんはあの年齢で、ずっと前に、読んでいた。若い人のような感想を言っていたよ。それで春樹を貸してもらったことがある。松本清張も全部読んでいたし。問題意識の強い人だった」と。
父が80歳くらいだった頃の話でしょうか?
そういえば、淡交社のお茶の雑誌も購読していました。趣味の幅が広い人でした。

父は、その「不良がいく映画館」、洋画専門の革新館の常連さんでした。
夜になると、時折、父は一人で、洋画を見に行っていました。

私の記憶に残っているのは、祖母が亡くなって、秩父神社から神主たちがゾロゾロやってきて、葬儀も終わった夜。

父は一人で、映画館に行きました。革新館です。
喪主だった父は儀式だった、母(祖母)との別れがすみ・・・。
そして、その夜、「映画に行ってくる」と家を出て行きました。
お酒を飲む人ではなかったので、母親との別れも、映画館。

その姿を見て、今夜は洋画を見ながら、父は祖母を偲んで一人で泣いているのだろうなと思いながら、眠りについたことを覚えています。
中1の時の話です。

それで、「これ」と思った、映画は、もう一つ番場通りにあった映画館「昭和館」に連れて行ってくれました。

さすがに、Kちゃんはよく覚えています。
私もすぐに、「キム・ドン」の映画を思い出しました。

一九四三年、仏領インドシナの北の三つの省に解放戦線が活動を始めた。カオバン省につくられたピオニール(救国少年隊)の最初の隊員がキム・ドン(レー・タン・フォン)である。彼は十五歳、いつも釣ザオをもちキュウカン鳥をつれている。キム・ドンと仲間たちは、保安隊の警戒をしりめに情報の連絡をしたり、ゲリラ隊の幹部を案内したりしていた。そしていつかは、キム・ドンの兄ザオのようにゲリラの闘いに参加したいと願っていた。ある日ザオは逮捕され、キム・ドンは兄の言いつけどおり医師クォンを山まで案内した。目的地に向かう途中、医師は敵につかまり、強制労働の現場につれていかれたキム・ドンは、とんちを働かせ、水牛にのって逃げだした。その騒ぎに医師もキム・ドンを追って脱走、無事に彼の任務をはたした。その夜、キム・ドンの家では、敵に逮捕されたため死亡した父の法事があった。この法事を利用して、ゲリラの幹部たちが集会している。その時保安隊が急襲してくるのを見たキム・ドンは、彼らを救うため、身を挺して保安隊を誘導した。そしてキム・ドンの若い命は散っていった。

こういう映画は、父は、子ども達に見せました。
でも、健ちゃんも私も記憶の中で、いつも残像としてあるのは、父と健ちゃんと私。

姉も、弟もいたのに、記憶にありません。

あ、そうだ。姉との思い出は、父が、毎年、夏休みになると、二人を連れて、東京に宝塚を見せに連れて行ってくれたこと。春日野八千代が男役。浜木綿子が娘役だった頃です。(ずいぶん、古い話です)

「本物に触れろ」
今でもずっと胸の奥に残っている、父の言葉です。

弟は、いつも母とお留守番役でした。

他にも、いろいろたくさん記憶に残っています。
その夜は、夫に、そんな姉弟、従兄弟、隣のK兄さんのことなどを話していました。夫も、K兄さんが、お盆の頃、いつも、早朝に川口の自宅を出て、大宮バイパス経由で車で、日帰りで秩父にお参りに来てくれていたので、顔を知っています。
秩父の家は神道なので、霊人様とお仏壇があります。

ちなみにK兄さんは、かなり昔に、ご結婚して、埼玉の川口の高校に転勤になり、ご家族、お子さん、お孫さんたちと賑やかに暮らしている様子が、お年賀状から伝わってきます。
今もお元気です。
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