パオと高床

あこがれの移動と定住

井上ひさし・小森陽一編集『座談会昭和文学史一』(集英社)

2009-12-03 02:41:03 | 国内・エッセイ・評論
井上ひさしと小森陽一がゲストを迎えて語る「昭和文学史」である。読んだのは、その一巻の最初の100ページほどにあたる「大正から昭和へ」という第一章。ゲストは加藤周一。

ちょうど、自然主義から私小説への流れを概観したいと思っていて、読んだのだが、やはり座談名手の加藤周一と井上ひさし、なかなか面白かった。
第一次世界大戦から米騒動、関東大震災、世界恐慌という時代の流れ、そこに、円本ブームやラジオ放送、それにともなう、「標準語」作成の動き。さらにその背景となる価値統括の気配などを語りながら、文学の動向を関連づけていく。その手際と考察の広がりに、何だか、流れがわかった気になってしまう。ただ、そこは、座談会の中で、加藤周一が語っているように、「解説書をいくら研究しても、それは自分の評価とはいえない」、「自分の眼で勝負しろ。見たら勝負できるんだから、ということです」なのである。この話の展開をきっかけにして、読んでみる本を探す作業が楽しいのかも。

明治後期ぐらいから始まるのだろうか、国家、公の枠組みに対して「私」が台頭してくる。座談では「自」を遣う言葉、「自分」「自覚」「自立」「自我」さらに「自活」という言葉が流行った時期だと語られている。そう、そして、それが「みずから」なのか「おのずから」なのかという「微妙な二重性」をもっていると指摘される。そこには、漱石や鴎外のように社会の中の個を扱うのではない、「社会化してない個」の問題が出てきてしまったのだと語られる。
加藤は「白樺派」の「社会化していない個」と個を確立したのではない「個の非社会化」の段階、さらに失業や労働問題で社会意識にめざめながらも個ではなくなってしまう「個のない社会化」という三つの段階を措定して、個の確立の前に焦点が移り変わって行ってしまったと論じている。その例外に有島武郎を置く。もう、この辺だけで、十分大変な問題に触れている。それが、さらに小林多喜二の可能性の問題や漢文素養の問題、翻訳の問題や「文学的言葉」とは何かにまで及んでいく。
なかなかどうしてなのである。

それにしても、加藤周一の手にかかると、「デノテーション」「コノテーションズ」といったことが、古典文学の「月」という言葉や、宮沢賢治の詩の言葉や中原中也を例にだして、すっきりと語られてしまう。たいしたもんだ。今、加藤周一の著作が読まれているという記事が新聞に載っていたが、頷ける。
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