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パオと高床

あこがれの移動と定住

アントニオ・タブッキ『レクイエム』鈴木昭裕訳(白水社)

2008-04-22 11:41:56 | 海外・小説
タブッキの名前を知ったのは須賀敦子さんの文章を読んでだった。『インド夜想曲』の追求のドラマは、謎の面白さと幻想的な空気の心地よさに包まれて、現実から逸脱していく旅に連れて行かれた。

『レクイエム』でも、その雰囲気を味わうことができた。行ったことのないリスボンの街を主人公と共に移動しながら、死者たちと出合っていく。死者たちは主人公と会話する。会話は地の文と一体となりながら、会話と地の文の境界もなくし、小説全体が主人公の移動と死者との対話によって成立する。死者の影を帯びながら、死者たちの持つリアルな感じ。わたしは彼らとの対話を違和感なく果たしながら、そこには取り戻せない時が存在している。レクイエムである。そして、中心はタブッキが敬愛する詩人ベソアとの出会いと食事の場面である。不思議なレストランでの不思議な食事を交えながらの文学談義に、ペソアへの批評をひそませる。何ておしゃれなんだ。そして、ペソアその人を小説家タブッキが語るために取ったこの小説自体が、ポルトガルの詩人への見事なオマージュになっている。詩人への小説家の返歌のような美しい小説だ。

小説で出合う多くの人の一覧や食事一覧が、読書を助ける。と同時に、主人公の旅の幻想性が、夢の持つリアリティで支えられているような気がした。ここでも、異界は現実と共にあるのだ。ただし、それは異界としてなのだ。

ラストが胸に沁みる。




エイミー・ベンダー『わがままなやつら』管啓次郎訳(角川書店)

2008-04-17 11:37:20 | 海外・小説
収録短編「マザーファッカー」の中の一節。
「〈これがおまえの欲望の家〉と彼は自分にむかってつぶやき、両目を閉じると、内側で待っていた愛しさの奔流はあまりに激しくて彼は自分が溺れるかもしれないと思った。」
ちょっと恥ずかしいけど、この一節の後半が、そのまま、この本の読後感かもしれない。何だか、様々な感情が、気分が、内側から溢れてくるようで、「ここにしかない、それは奇跡的な世界」という紹介文がそのまま直に心に入る。淡々と書かれた短い15の小説たち。寓話のようで、しかも特定の意味に還元されない寓話のようで、直接心に触れてくる。怖さや残酷さや痛さや哀しさや優しさが、話の端々に隠れていて、それがボクらの心の襞の奥に隠れている同じ感情にふわっと触れるのだ。その瞬間、「薔薇の黄色い花びらの上に完璧にちょこんと載っている、リボンのついた小さな黄色い帽子」(「終点」)を見つけるのだ。

想像力溢れる小説たち。
医者と死を宣告された十人の男たちとの物語「死を見守る」
小さな男を飼う大きな男のお話「終点」
パーティで三人の男とキスすることを目標にした少女の話「オフ」
マーザーファッカーと新人女優の恋物語「マザーファッカー」
単語を売る店でのいさかいを綴る「果物と単語」
カボチャ頭のカップルに生まれたアイロン頭の男の子のお話「アイロン頭」
問えない神様の指示に従う「ジョブの仕事」
捨てても捨てても戻ってくる七つのじゃがいもの成長物語「飢饉」
塩胡椒シェイカーから夫婦の死を物語る「塩胡椒シェイカー殺人事件」
右手の小指を除いて、指が鍵になっている少年が九つの扉を探す話「主役」
など。短いどれもが、鮮やかで、愛おしい。

他の人のブログから、この作家に出会うことができた。出会えてよかったと思える一冊だった。ひそかに感謝。




イアン・R・マクラウド『夏の涯ての島』浅倉久志他訳(早川書房)

2008-04-01 12:57:09 | 海外・小説
収録作品数編を読む。

中編「息吹き苔」の中で、タリーカと呼ばれる神秘修行者が主人公のジャリラに言う言葉がある。
「さあ、想像してみなさい。ジャリラ。この宇宙がたったひとつのもの、これがあれのあとにつづくようなひとつながりではなく、潜在的可能性の果てしない枝分かれだとしたら?宇宙は天地創造の日からそうだったし、いまもそうなのよ。風に捕らえられたあの木の葉の動きも、そのコーヒーから立ちのぼる湯気も。あらゆる瞬間にいろいろの変化が含まれている。その大半は、貧弱なできそこないのしろもの、全能の神のつかのまの思いつきや気まぐれにすぎない。宙ぶらりんのまま死に絶え、二度と見ることができない。でも、それ以外の枝分かれは、いまわたしたちが歩んでいるこのルート同様、堅固に作られている。この城(カスル)のなかには、おまえもわたしもまだすわったことのない宇宙がいくつもある。そこにはジャリラのいない宇宙もある…。」
これが、そのまま、この作者の作品集を支えている。たくさんの多層的宇宙、多層的時間のひとつが描き出されていく。

この「息吹き苔」は、〈10001世界〉にある惑星ハバラを舞台にした物語だ。高原から海岸に移動してきた少女ジャリラは途中、息吹き苔を吐き出す。これが少女から大人への移り変わりの兆候である。そして、住民のほとんどが女性であるハバラでのジャリラの恋と成長が描かれるのだ。この世界はアラビア風、エジプト風であり、遊牧の生活とギリシャ的街並みの混在も見られる。科学技術は発達し、原地球から移り住んできた未来世界が克明にイメージ豊かに描かれていく。かつて、大航海に出たであろうアラビアの旅人は、この世界では宇宙空間の旅人となる。解説や説明を加えずに、もう既に世界にあるものとして固有名詞化されたものが出てきたり、世界の成り立ちや構図は、ジャリラが知らないように読者にも知らされず話は進むのだが、壮大な未来史を神話的な雰囲気で構築している。
お互いが離れてしまう〈距離の苦痛〉。ジャリラは旅立ちで涙を流し、涙の意味を知る。だが、その苦痛とは、すばらしい人生に対して「そのすべてとひきかえに、おまえが支払う代償なのだ」とタリーカは意味づける。部分の描写や感情の動き、そして思索的な言葉がよかった。例えば、「あらゆる感情のなかで欲望はいちばんふしぎだ。それにとりつかれてないときはごくささいなものに思えるが、とりつかれたときは、宇宙の秘密のすべてがそこで待っているような気がする…。」とか。「全能の神の核心は、星ぼしの間の無の空間に似ていて、みんながそのまわりをめぐっている。わたしたちは、それがそこにあることを知っているが、決してそれを見ることはできない…。」とか。

表題作「夏の涯ての島」は「改変歴史もの」に位置づけられている。
改変歴史ものは、SFだけでなく、例えば、スティーヴ・エリクソンの『黒い時計の旅』などのように、改変することで歴史の暗部に切り込み、現代史自体を覆してみせる力業の作品から、改変自体の機知と楽しみに批評精神を融合させたものなどたくさんあるのだろうが、この小説は、むしろ、歴史の改変が帰らぬ青春と繋がっているところに、味わいがあるのだろう。
1940年ドイツに敗れたイギリスの辿る歴史。カリスマ指導者ジョン・アーサーによるファシズム政権のなかで迫害されるユダヤ人や同性愛者たち。その敗戦下の状況が歴史をいぶり出す一方で、アーサーは、歴史学者である語り手の男グリフが愛した男である。老境のグリフのアーサーと過ごした時間への思いが、再会を果たした現在の時間に重なっていく。背景には大きな暴力がある。その中で歴史は繰り返される。しかし、帰らないかけがえのない時。思い出の時間である夏と現在が交差しあう表現が冴える。〈The Summer Isles〉をサマー諸島ではなく、「夏の涯ての島」と訳す表題が示すように、離され、涯てにいった夏の島への痛みが伝わってきた。
ただ、もうひとつ浸りきれなかったのは、どうしてだろうという気持ちも残ったのだ。案外、短かったからかも。

この本で、読みやすいのは「わが家のサッカーボール」かもしれない。考えたものに変身する能力を身につけた人間が暮らす世界が舞台だ。変身譚の変形として十分楽しめるし、そこにもられたストーリーの、ほの哀しさと、微笑ましさは古風な家族愛のテイストなのだ。トラウマが具現化され外化する変身。それは考えようによっては、人の心の動きの明確化でもあるだろう。そう考えると、具現化されずに眠ったままの心の闇が、昨今、むしろ怖いのかもしれない。




ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)

2008-03-07 23:53:52 | 海外・小説
この星を60数億の意識が包んでいる。その中で意識が交わるお互いになれる関係はどれだけあるのだろう。交差する意識。その重なりとズレ。

スコットランドの孤島の別荘に集まる人々。ラムジー夫人を中心に、夫である哲学者ラムジー氏、そして子供たち。キャンバスに夫人を描こうとする画家のリリーやバンクス氏などの意識が、お互いの思いを、過去を描き出していく。いわゆる「意識の流れ」という手法。そこでは今まさに起こっている意識が、自らの過ごしてきた時を往き来し、過去を現在につなげる。そして、今この場所で、お互いの意識は、様々に揺れながら、微妙な反発やほのかな思い、慈しみ、理解と無理解を、お互いの上に重ねていく。

小説は三部構成になっている。
第一部「窓」は、この別荘に集まる人々の一日が描かれている。この一日に、実は静かで穏やかな日々のすべてが凝縮されている。人は決して単一の感情で相手に臨むものではないだろう。その都度の多くの思いの中を漂いながら、大きなある感情に覆われている自分自身に気付くのではないだろうか。その意識の動きは、意識の停止する状態つまり死に枠取られている。死が、意識の停止が、意識の流れるこの小説を静謐な空気で支配している。明日、灯台に行こうとする夫人と息子。期待する息子の気持ちをくみ取らずに「晴れにはならんだろう」と言ってしまうラムジー氏。それに反発するラムジー夫人。灯台は第一部では行き着けない明日を象徴する。その点滅する灯り。それは、それぞれの意識を照らし、それは生の光を、その揺れのはかなさまで含めて象徴する。この第一部では特に17章の晩餐会の場面が圧倒的だ。集う人々の意識がラムジー夫人を中心にして交響的に響き合う。その章の終わりは晩餐の席をあとにする次の文章である。「夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った」。その後で、18章と第一部ラスト19章の寝室の場面になるのだ。第一部のラストで、夫が言って欲しい一言を、夫人は「笑みを浮かべ」て、「見つめるだけ」で口に出さずにおく。そして、その一言は結局封印されてしまうのだ。明日へのつながりが断層を持ってしまう一日が終わる。小説の言葉は、その周囲に熱と冷たさを伴って、包み込んでくる。

第二部「時はゆく」の鎮魂は息をのむ美しさだ。美しさという言葉が適切かはわからないが、この第二部は、痛い思い、悼む気持ち、静かな怒り、にじむ悲哀など、生が、過ぎ去ったもの、失ったものに対して持つであろうあらゆる感情と、それを含めて流れていく、流れ出す、時の姿が美しい。第一部から十年の歳月が流れていく。その陰惨な暴力の時代を、ウルフは不在の側から告発する。この告発は、詩情が、暴力に対してみせる清冽さと繊細さに満ちている。ここでは、意識は時そのものの意識となっているようだ。「それにしても、一晩とは結局何なのか?」という言葉が表すように、この十年を第一部ラストの寝室からの一晩にする。そこにある断層と連続。時が流れ出すように、第三部「灯台」に繋がっていく。

第三部では、あの日行けなかった灯台へラムジー氏と子供たちは出発する。それを孤島から見守るリリー。彼女は十年越しの絵を完成させようとしている。舟にのるラムジー氏の意識と、それを見つめるリリーの意識。意識は空間を超える。隔たった空隙を意識が飛ぶ。そのダイナミズム。リリーからはラムジー夫人への思いが溢れ出す。息子のジェイムズは舟の舵を取る。灯台に向けて。それは、十年前の過去への遡行でありながら、時を超えて、未来への曳航でもある。

時は鎮められ、繋がりながら流れる。意識は記憶を思い出だけにしない。20世紀の始まり、戦争の世紀の始まりにすでに捧げられたレクイエム。表紙紹介文にある「去りゆく時代への清冽なレクイエム」という言葉が心に残る。
「われらは滅びぬ、おのおの一人にて」とは、小説中繰り返されるいくつかの言葉の一つだ。一人にて滅ぶ、われら。それを切れ切れにしない時の繋がりが小説から沁みだしてくる。





ウィリアム・モリス『世界のかなたの森』小野二郎訳(晶文社)

2008-02-07 10:53:53 | 海外・小説
ウィリアム・モリスという人も、ボクはその実績をよく知らないままに、名前だけが記憶の中にあるという人の一人だ。この本、「ウィリアム・モリス・コレクション」の中の一冊。このコレクションは「ファンタジー文学の未踏の原野をきりひらいた」全7巻の「文学的冒険の精髄」というふれこみがついている。
カバーはモリスの壁紙のデザインになっていて、章の中の小見出しにも、モリスのデザインがあしらわれている。

モリスは19世紀後半のイギリス・ヴィクトリア朝時代の装飾芸術家で、社会主義運動家、詩人で作家。私家版印刷所を作り「理想の美しい本づくり」を追求した人である。昨年末に「ウィリアム・モリス展」という展覧会が開催されて、「世界の三大美書」の一つと言われる「チョーサア著作集」などが公開された。

小説は、主人公ウォルターが、ふと目にした女王と侍女と小人の三人に誘われるように「地の裂け目」から森に入りこみ、そこで・・・という展開である。過剰に魔術や異形の者が現れてくるわけではない。しかし、ストーリーは短い章構成に牽引されるようにウォルターの移動にしたがって起伏があり、また、この物語世界は、ちまちました、せせこましさとは無縁な空間の中にいる気分にさせてくれる。谷間、森、草原、海、浜辺、川、湖、城壁のある都市が、木々や草花が、対象として描かれるというより、臨場としてそこにあるというように感じられるのだ。
ばたばたと読むのではなく、何か、違う時間の流れで読むような、話の速度とは別に、ゆっくりとした時に包まれているような、そんな読書の時間だった。