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パオと高床

あこがれの移動と定住

カフカ『変身』池内紀訳(白水Uブックス)

2008-01-26 23:00:51 | 海外・小説
いわずとしれたカフカの小説。夜、横になって読んでいると、明日の朝目覚めて「虫」になっていたらどうしよう、とか、考えないかな?

この小説に関して、よく言われる不思議なことに、「虫」になっている自分自身に対する疑いがなく、それを受け入れているという点がある。その通りである。さらに、「虫」になっているグレーゴルをめぐる状況は描かれていくが、その「虫」になったことへの問いかけはない。因果は消えているのだ。それは現代小説の先駆だと思う。妙な因果律の廃止。むしろ、その状況がもたらす生と死の問題。これが不条理とか実存とかの問題とくっつくきっかけなのかもしれない。
ただ、暴言をあえてすると。この小説、実は「虫」になるという作者の想像の力をなくしても、十分、構築力がある創造的な小説なのだ。
で、例えば、グレーゴルの視線の作る視界は、正岡子規の小さな世界の小宇宙性を連想させる。小説の推進力は、グレーゴルが捉えた世界の具体性に見いだせる。これが、「虫」になるという現象を様々な解釈に連れ出すことを可能にする、この小説の寓話性を保証しているのだ。

また、同じ変身もの(?)の、中島敦『山月記』では、虎化していく時に「人」性を忘れていく過程が描かれる。しかし、『変身』では、部屋を片づけることとか恥じらいをなくすこととかでの「人」性から離れる感じは描かれているが、それが強く表れてはこない。むしろ、それはリアリズムのしっぽとして描かれているような気がするのだ。それよりも、言葉を解さないと思いこんでしまった家族に対する、言葉を解しているかのようなグレーゴルという存在の方が強い。「虫」になったグレーゴルの意識は最後まで明晰である。

それにしても、<「虫」になったことがあるか君>という問いがずっと有効であるような気がするこの小説、さらに深く迫ってきた。
作者は死んでも、作品の背後で、息づかいをし続ける。作品の自立とは、別の地平が、常にあるのだ。




イタロ・カルヴィーノ『柔かい月』脇功訳(河出文庫)

2008-01-13 20:45:36 | 海外・小説
カルヴィーノの小説を読むのは三冊目だ。最前衛を駆け抜けたこの人の小説は本当に読んで楽しい。『パロマー』の極限の手前という感じはするが、方法的意図は、この作品の方が刻み込まれているのかもしれない。

三部構成で自在に小説空間、時間を行き来していく。そして、小説の境界を拡張していこうとするのだ。
第一部ではQfwfq氏が登場し、地球と月との関係、地球の起源、進化の途中鳥類によってもたらされた進化の結節、鉱物の世界、生命の誕生を語り尽くす。語る相手が存在し、語られる内容は宇宙史、生命史に及ぶ。それが二部になると細胞の世界になってしまう。生殖細胞そのものになったかのような語りになり、生と死の原初的な当事者になる。ここまでは未来的な風貌を示しながら、大きな過去の物語が語られる。
ところが、語られる過去の地点は、その時の、<今まさに>なのである。小説が読者との間に同時性を持つものだとすれば、描写されている地点が常に今なのは当然なのかもしれない。その<今まさに>には、始まりとしての起点や時の流入があり、そこからの時の流出がある。ただ一貫した時間の貫流があるわけではない。それはむしろ環流の可能性がありながら、選ばれた一つの流れになる状況を描き出しているかのようだ。
すると、次に、その<今まさに>を現在で語る物語が必要になる。そこに三部のティ・ゼロが現れる。「ティ・ゼロ」は瞬間の現在を捉える小説だ。それは心理分析よりも状況説明に比重が置かれる。その、まさに、ライオンに襲われようとする時間の一点において、時のターミナルとしての現在を語り尽くす。
そして、「夜の運転手」では意識の流れに集中した小説に転じる。存在が意識になってしまったかのようだ。ここでは、存在の逆説とでもいえるものが語られる。状況を打開しようとする行為が、状況に閉じこめる現況を生むとでも言えようか。しかし、彼は書く。自らが「語られることそれ自体と同化してしまいたい者」であれば、「光の信号」と化して「走り続ける」ことだろうと。「ここ以外には、もう私たちの信号を受信し、理解できる者はいないからである」と。そう、語りの中に語られる存在はある。それが小説の宿命であり、力であると告げているようだ。
そして、最後に「モンテ・クリスト伯爵」が置かれる。脱獄の地図と小説の地図を一致させ、外部と内部の転換と同義を書き、外へが内奥へ向かうと考え、広がる境界の速度と掘削する速度の競走に絶望し、イフ島をセント・ヘレナと結びつけることが可能な小説の飛躍を時の様々な一致への小説の力に置き換えながら、一編の小説が小説論に化していく。それがそのまま作家としての姿勢を示し、『柔らかい月』を語ってもいる。そして、「その可能性を見つけ出すには架空の砦と実在の砦との一致しない点を探し当てればよいのだ」と結ぶ。この人の反リアリズムの徹底と想像力の持つ創造的リアリズムへの宣言が見て取れるのだ。これは、僕が好きな小説のひとつ『見えない都市』を貫くものでもあると思う。

ただし、こんな小難しさとは関係なく、カルヴィーノは楽しいのだ。どこからでも小説を立ち上げていく想像力の楽しさが伝わる。「ティ・ゼロ」は古代文明の壺絵のようなライオンに襲われる射手から状況小説が作られるし、「追跡」は本人が車の渋滞に巻き込まれて、その渦中で発想、創作されたのではないかと思わせる。「柔かい月」の柔らかい月というイメージも、生殖細胞の染色体の分裂の描写なども、各編それぞれ、その奇想が楽しいのだ。

あっ、この人の『文学講座』もよかった。




クリストフ・バタイユ『安南・愛の王国』辻邦生訳(集英社)

2007-12-27 00:11:19 | 海外・小説
名前のせいで読むのを避けていた作家である。何だか、勝手にバタイユの息子と思いこんでしまって。さらに、別に息子だったとしても読まない理由にはならないのに。
まず、クリストフ・バタイユにごめんなさい。意固地な偏見はよくない。さらにわけわかんないのは、ボクが別にジョルジュ・バタイユが嫌いだというわけではないことで、こうなると、自分でも理解不能。ただ読まなかっただけということなのだ。

小説は、ルイ16世統治下、ヴェトナムに派遣された軍隊と修道士の物語である。次々に死が襲い、結局、目的は失敗に終わる。その中で、他の修道士たちと別れ、安南へ向かうカトリーヌ修道女とドミニク修道士の話が小説後半からラストまでを支える。

この小説、どうしても描写について考えさせられてしまう。もちろん翻訳なのだが、短い文章の連続なのだ。連続というより、行間まで含めているような簡潔さ。例えば、数行余白の間に「数ヶ月が経ち、そして、数カ年が経った。」という一行が置かれている。両脇の余白に挟まれて、時間がふっと経っているのがわかるのだ。もう少し、うがった言い方をすれば、経っていない時間も含めて、そこにある感じなのだ。
ヴェトナムの時間を「永遠」と書いている箇所が数カ所あり、それが、アジアの時間とヨーロッパの時間、変転と悠久、を対比させる。ほとんど一文で表されたような気にさせるフランス革命当時の時代の流れ。これは書かれた文章が簡潔であればあるほど、時間の激変を感じさせる。その背景の急転の前で、動かない時が修道士たちを包み込んでいる。激流に忘れられながら、自らの拠って立つ価値も忘却していく。しかし、修道士たちはむしろ「天と地と精霊とに導かれ」て「宇宙との調和」を果たす場所に存在する。「からだ」が「真実」であると実感できる場所の発見。そのために、彼らはヴェトナムという他者異質性に出会わなければならなかったのだ。
それはキリスト教的には楽園追放なのかもしれない。暑さと湿度の中、死のある場所のインドシナ。しかし、そこは永遠の時間が自然に宿る楽園でもあったのだ。ヨーロッパ社会から忘れられた修道士たちは、かれら自身がキリスト教的世界を忘れていくことで、異質性を同質化する。そこに、この小説が持つ詩が溢れ出す。美辞麗句、過剰絢爛たる描写の構築物といった小説もあるだろうが、それと真逆に、そぎ落とされたこの小説には、読者を惹きつける想像力の強さがある。そして、ヨーロッパにとってのアジアのイメージを思ったり、一神教的なものの汎神的な世界への滑落が逆に世界との一体化を果たすという開かれの呈示を読み取ったり、革命当時の王権の崩壊が父性と神性にどのような影響を与えたかへのアプローチがあるのではと勝手に思いこんだりさせてくれる小説であった。

「世界は空っぽの貝殻なのだった」と意味を失いながら、受け入れた世界は、棚田を「天の鏡」と語る老人に出会う世界だったのだ。クリストフ・バタイユにとって、ヴェトナムは美しいのだ。




ケリー・リンク『マジック・フォー・ビギナーズ』柴田元幸訳(早川書房)

2007-12-20 02:38:51 | 海外・小説
相変わらず、不思議な作品たちだ。『スペシャリストの帽子』より、迫力は抑えられているような、しかし、より日常に近いところに別の層があるような感じは強まっている気がする。いきなり状況設定から入り、三人称の語りが登場人物たちの意識で崩れ、何だか不思議な世界をそのまま出現させる手法は、より意識的になっているのかもしれない。すーと非現実が受け入れられてしまう小説世界。しかし、そこに不可解は残る。
どの小説がよかったかな。

「妖精のハンドバッグ」は一番入りやすいかも。ハンドバッグの中が見たくなる。時の流れが違う世界が丸ごと入ってしまうハンドバッグという設定と、そこに入る「バルデツィヴルレキスタン」という国の情景に惹きつけられる。何だかモンゴルの草原を思い出したりした。宮崎駿アニメのキャラを連想したり、ブローディガンの小説をちょっと思い浮かべたりもした。
あれもこれもと書きたくなるが、「石の動物」の月夜の兎たちは視覚的イメージが残る。恐怖を逆手に取る。ホラーのような設定で持ってきて、恐怖の実質は別の所にある。憑かれるものと憑かれたと見てしまうものの恐怖。違和感が嫌悪や嘔吐につながるのは実存的な恐怖につながるようだ。むしろ日常が危うい。思うとおりに動かない、同時性を持たない、日常が危うい。違和感の増幅が槍を持って兎に乗る状況に向かう展開は、妙に時代を映しているような気がした。

この本の作品群には抱え込んだ異質性が地層のように層をなしている。ハンドバッグの中やコンビニの近くの入り口<聞こ見ゆる深淵>、猫の皮の中、兎の地下空間、テレビ番組の中、クローゼットの中などなど。ゾンビや悪魔や魔女やテレビの登場人物やエイリアンはそこを平気で行き来する。

生者と死者の結婚と離婚を描く「大いなる離婚」。ゾンビが客のコンビニを舞台にした「ザ・ホルトラク」。表題作「マジック・フォー・ビギナーズ」は傑作少年(青年)小説で、人は現実の中にだけではなく、むしろ現実と拮抗する、あるいは現実から避難すべくイメージの世界に生きているのだということが<実感>できる。現実と同量同質の非現実が、僕らに与える使命のようなものが、僕らをつないでいる。そんな静かな感動があった。それにしても、遺言でもらう電話ボックスとウェディングチャペルという着想はいい。その州道沿いの電話ボックスとの応答とそこへの旅という展開もいい。
「しばしの沈黙」はタイムマシンものでありながら、むしろ取り戻せない時間への致命的な想いが伝わる。時を遡行する文体は、そのまま、物語の構造と私たちの時間を解体していくようだ。
この小説に「夜風はリンゴみたいな匂いがする。きっと時間というものもこういう匂いなんだろう」という一節がある。どんな匂いか分からないが、切なくすっぱく、そして変に甘い感じ。さらに匂いにとどまらず、人の知ってしまう時間の秘密と宿命と、その先、至れない場所。そこからこぼれだす、哀しみや切なさや痛みや怖れ。そして、瑞々しさ。小説は、奇妙な展開を見せながら、独特のたたずまいで、それらに包まれている。
「猫の皮」が、案外、この作者の特徴をわかりやすく表しているような気がする。単なる気のせいかもしれないけれど。

とにかく、まっすぐ進まない小説たちで、細部に惹かれ、イメージに酔い、何々ぽさからはぐらかされ取り残される感じが、心地よかったりするのだ。それから、過度な湿度がないのもいい。




ケリー・リンク『スペシャリストの帽子』金子ゆき子・佐田千織訳(ハヤカワ文庫)

2007-12-11 11:53:27 | 海外・小説
『インディアナ、インディアナ』のあとがきで、柴田元幸が、ここ二、三年で出会ったアメリカ現代作家の三人としてあげていた一人だ。文庫を買って、表題作だけ読んでおもしろいと思いながら、何だかそのままにしていた本である。

今回この短編集を読んで、収録十一編、堪能できた。表題作の恐怖小説のようなひたひたとくる怖さと憧憬を伴った懐かしさ。「ルイーズのゴースト」の切ないような痛さ。「雪の女王と旅して」のイメージの美しさ。「飛行訓練」の構成の面白さ。「黒犬の背に水」の詩情溢れる不気味さ。「少女探偵」「靴と結婚」のパロディの巧みさ。「カーネーション、リリー、リリー、ローズ」の断章構成のスリリングな感じ。どの小説も、奇想とイメージの豊かさと胸に迫ってくる詩的情感が溢れている。静かな筆致といえるのかもしれない。沁みるように体に入ってくる。

謎が謎として置き去りにされてしまう。合点がいくわけではないのだ。ラスト数ページに、一気に展開がある。そこで合点がいくのではなく、むしろ着地は、深い謎を呼び覚ますようでもある。ところが、それが、とても快適な読後感を生むのだ。もちろん、再読したら、また違う印象を受けるのかもしれない。配置されたパーツが見事に符合するような気もする。

話の流れは、通常の辻褄を回避しているようでもある。そう、「夢の文体」とでも言えそうな。「この訳(わけ)のわからなさは、夢のわからなさです」とあとがきで柴田元幸は書いているが、その、ありえなさが、小説の魅力的な創造力なのだ。小説の中では十分に「ありえる」し、僕らはそんな時間も心の中で生きているのだ。空気がきちんと残る小説たちだった。
近々、柴田元幸訳で小説集が出るらしい。楽しみにして待つ。