パオと高床

あこがれの移動と定住

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』御輿哲也訳(岩波文庫)

2008-03-07 23:53:52 | 海外・小説
この星を60数億の意識が包んでいる。その中で意識が交わるお互いになれる関係はどれだけあるのだろう。交差する意識。その重なりとズレ。

スコットランドの孤島の別荘に集まる人々。ラムジー夫人を中心に、夫である哲学者ラムジー氏、そして子供たち。キャンバスに夫人を描こうとする画家のリリーやバンクス氏などの意識が、お互いの思いを、過去を描き出していく。いわゆる「意識の流れ」という手法。そこでは今まさに起こっている意識が、自らの過ごしてきた時を往き来し、過去を現在につなげる。そして、今この場所で、お互いの意識は、様々に揺れながら、微妙な反発やほのかな思い、慈しみ、理解と無理解を、お互いの上に重ねていく。

小説は三部構成になっている。
第一部「窓」は、この別荘に集まる人々の一日が描かれている。この一日に、実は静かで穏やかな日々のすべてが凝縮されている。人は決して単一の感情で相手に臨むものではないだろう。その都度の多くの思いの中を漂いながら、大きなある感情に覆われている自分自身に気付くのではないだろうか。その意識の動きは、意識の停止する状態つまり死に枠取られている。死が、意識の停止が、意識の流れるこの小説を静謐な空気で支配している。明日、灯台に行こうとする夫人と息子。期待する息子の気持ちをくみ取らずに「晴れにはならんだろう」と言ってしまうラムジー氏。それに反発するラムジー夫人。灯台は第一部では行き着けない明日を象徴する。その点滅する灯り。それは、それぞれの意識を照らし、それは生の光を、その揺れのはかなさまで含めて象徴する。この第一部では特に17章の晩餐会の場面が圧倒的だ。集う人々の意識がラムジー夫人を中心にして交響的に響き合う。その章の終わりは晩餐の席をあとにする次の文章である。「夫人は、肩ごしにもう一度だけ振り返って、それがもはや過去のものになったことを知った」。その後で、18章と第一部ラスト19章の寝室の場面になるのだ。第一部のラストで、夫が言って欲しい一言を、夫人は「笑みを浮かべ」て、「見つめるだけ」で口に出さずにおく。そして、その一言は結局封印されてしまうのだ。明日へのつながりが断層を持ってしまう一日が終わる。小説の言葉は、その周囲に熱と冷たさを伴って、包み込んでくる。

第二部「時はゆく」の鎮魂は息をのむ美しさだ。美しさという言葉が適切かはわからないが、この第二部は、痛い思い、悼む気持ち、静かな怒り、にじむ悲哀など、生が、過ぎ去ったもの、失ったものに対して持つであろうあらゆる感情と、それを含めて流れていく、流れ出す、時の姿が美しい。第一部から十年の歳月が流れていく。その陰惨な暴力の時代を、ウルフは不在の側から告発する。この告発は、詩情が、暴力に対してみせる清冽さと繊細さに満ちている。ここでは、意識は時そのものの意識となっているようだ。「それにしても、一晩とは結局何なのか?」という言葉が表すように、この十年を第一部ラストの寝室からの一晩にする。そこにある断層と連続。時が流れ出すように、第三部「灯台」に繋がっていく。

第三部では、あの日行けなかった灯台へラムジー氏と子供たちは出発する。それを孤島から見守るリリー。彼女は十年越しの絵を完成させようとしている。舟にのるラムジー氏の意識と、それを見つめるリリーの意識。意識は空間を超える。隔たった空隙を意識が飛ぶ。そのダイナミズム。リリーからはラムジー夫人への思いが溢れ出す。息子のジェイムズは舟の舵を取る。灯台に向けて。それは、十年前の過去への遡行でありながら、時を超えて、未来への曳航でもある。

時は鎮められ、繋がりながら流れる。意識は記憶を思い出だけにしない。20世紀の始まり、戦争の世紀の始まりにすでに捧げられたレクイエム。表紙紹介文にある「去りゆく時代への清冽なレクイエム」という言葉が心に残る。
「われらは滅びぬ、おのおの一人にて」とは、小説中繰り返されるいくつかの言葉の一つだ。一人にて滅ぶ、われら。それを切れ切れにしない時の繋がりが小説から沁みだしてくる。




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