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パオと高床

あこがれの移動と定住

ダイ・シージエ『バルザックと小さな中国のお針子』新島進訳(早川書房)

2008-06-10 12:39:14 | 海外・小説
ボクらは、背負わされた困難の中で、自立する場所に至る。至るはずだ、という願いも含めて。
どんな状況でも、あるべき青春があるはずで、あらゆる痛恨の思いも込めて、青春のまっただ中を生き抜く想像力に、酔わせてくれること、それも、想像力の現れである小説の力なのだと思う。
〈青春小説〉という範疇があるとする。その範疇にはまった小説を読むことの心地よさ。

この小説は文化大革命当時の下放で山奥に再教育に行かされた青年たちの物語だ。僕17歳と羅(ルオ)は18歳。恋の相手は仕立屋の娘、小裁縫(シャオツアイフオン)。二人は同じ下放政策で山奥にきているメガネというあだ名の友人の鞄の中にバルザックを代表とする禁書の西洋の小説を見つける。彼らは読みふけり、夢や冒険を逞しくする。また、彼らは語り部となって、恋人や仕立屋に小説を語っていく。渇望するままに小説の世界に魅入られていく姿がいい。それで現実が変わっていく状況がいい。文革を声高に糾弾するわけではない。だが、その不条理の中で逞しく繋がっていく想像の力とみずみずしさが、時代や権力と闘うしたたかさも描写している。新鮮さとユーモアとウィット。これが武器なのだ。

鞄の中のバルザックに出会った場面。
「巴爾扎克(バールーザッーク)。中国語に訳されたこのフランス人作家の名は、四つの漢字でできていた。翻訳とは魔法のようだ!この名前の最初の二音が重く、好戦的な響きを持っていて古くさいのだが、それがすっと消えてしまう。四つの文字はどれも気品にあふれ、字画に無駄はなく、全体は並はずれて美しかった。地下で何百年も寝かされていた芳醇な酒の香のように、官能的で豊かな、異国の味わいを醸しだしていた」

『ジャン・クリストフ』にのめり込む場面。
「卑小さのかけらすらないその断固たる個人主義でもって、僕に心の糧となるような啓示をもたらした。この本がなかったら僕は、個人主義の輝きも偉大さもついぞ理解できなかっただろう。」

モンテ・クリスト伯の話をまるまる九晩語りつづけて、わくわくしながら聞く仕立屋の老人や、小説をもらえることに目を輝かせる医者などにも知識や真に人をわくわくさせる楽しみへの希求が溢れている。
カバー裏の推奨文が、偽りなく実感できる小説だった。

小説と現実との交錯するこんな表現もあった。
「われらがロミオと…ジュリエットはそこに逃げこみ、今度はフライデーになったあの刑事に助けられながら、ロビンソン・クルーソのように暮らすことができただろう。」

著者自身によって映画化されている。映画はまだ見ていないが、「中国のお針子」という題名だったか?
著者自身も下放政策で山岳地帯で再教育を受けさせられ、その後、パリに留学、この小説はフランス語で書かれていると解説にあった。彼もスタイナーの言葉を借りれば「脱領域の知性」の一人なのかもしれない。




パトリック・モディアノ『暗いブティック通り』平岡篤頼訳(白水社)

2008-06-06 02:03:41 | 海外・小説
白水社で平岡篤頼訳とくるとヌーヴォー・ロマンの牙城のような気がする。モディアノは、それ以後のポスト・ヌーヴォー・ロマン(?)に位置するのだが、白水社が持っていた現代世界文学の前線基地といった印象は強い。
『暗いブティック通り』というこの小説自体が、ボクの記憶の深みからフイと蘇ってきたようだ。そう、小説の中身が記憶喪失の主人公の過去の追求、蘇りであるのと同調するように。

「私は何者でもない。その夕方、キャフェのテラスに坐った、ただの仄白いシルエットに過ぎなかった。雨が止むのを待っていたのだった。ユットと別れた時に降りはじめた夕立だ。」という書き出しは、直球勝負である。
いきなり「私は何者でもない」から始まる「私探し」の旅なのである。そして、この冒頭、単行本二行に沁みだしているフランス文学の佇まいが、いい。短い章構成が断片的な記憶の回復を表しながら、そこにだけ集中していく現在の主人公の場と状況を綴り、織りなしていく。そして、断章は印象的に像を刻み、その空気を醸し出すのだ。歴史の背景が、時代の重たさが、行間にくすぶっている。そして、余韻ある洒落た文との出会い。
「建物の玄関というものには、そこを通り抜けるのを習慣にしていてその後ろ姿を消した人々の足音の谺が、いまも聞こえるのではないかと思う。」とか、
「《砂はと彼の使った言葉をそのまま引用するが何秒かの間しかわれわれの足跡を留めない》」とか。これに酔えたら、かつて言われた言葉「モディアノ中毒」なのかもしれない。

この小説は1978年ゴンクール賞受賞作だが、同じ私探しが母の虚像からの自立へと向かう『さびしい宝石』は2001年作で、モディアノは19歳の少女の語りに挑戦している。私自身の喪失した記憶探しから、傷ついた少女の存在の基盤探しに向かう作家の歩みは、モディアノ自身が他者性の中に自らの「私」を追求していく営みでもあるのかもしれない。

それにしても平岡篤頼の訳を久しぶりに読んだ。あとがき共々、うれしい気持ちになった。3月にロブ・グリエが死に、追悼文を菅野昭正が朝日新聞に書いていたが、内面へのアプローチと存在を取り巻く問いの連鎖は、この本のあとがきで平岡篤頼が手際よく整理してみせている。
あるいは、「すぐれた現代小説は推理小説的構造をとる」という説。そして、さらに「たいてい最後まで謎の解けない推理小説である」という、もう一つの説という書きぶりなども、またまた、いくつか、この人の訳や文章を読んでみたいなと思わせるものがあった。

今回の新装版、2005年発行で、『冬のソナタ』ブームの影響があるらしい。確かに『冬のソナタ』の脚本家が好きな小説だろうという気はした。写真のイメージや記憶の使い方、醸し出される情感に似た味わいがあるのかも。




パトリック・モディアノ『さびしい宝石』白井成雄訳(作品社)

2008-05-29 10:02:29 | 海外・小説
ボクらがボクらの存在を支えられるのはどうしてだろう。ただ意味もなく在る状態から存在しているとりわけの自分に思えるのはどんなときだろう。
自分が生きていることの意味と、自分がいることの役割が、ボクらを世界につなぎとめる。そこまで自覚的でなかったとしても、その生きてきた時間なりの過去が、自分自身の過ごした時間が、ボクらの存在の基盤となってボクらを未来につないでいく。
かりに、今が無意味に思えたとしても、その今がたちどころに過去になっていくときに、その過去の実体がボクらの今を支えるものに変わっていけるか。それは、充実しきった今ではなくても、今を実際に生きるところからしか始まらないのかもしれない。実際に生きられた今があれば、そのリアルは過去の実体となって今を支える。
ボクらは断続的な無数の今を、自分の存在のなかにあって自分の存在を支える連続として再構築できるのだ。現在と過去と未来を、自分の時間として自分の存在の拡がりとして自覚し、自分の存在を立ち上げることが出来るのは、おそらく人間だけなのかもしれない。

しかし、過去が嘘で塗り固められていたら。探し出すべき自分の意味が、いつかあらかじめ失われてしまっていると感じていたら。自分ひとりが愛情の世界から切り離されて、世界のただ中に置き去りにされたとしたら。さまよう「わたし」の現実は曖昧で、実体のないものになるのかもしれない。そんな19歳のテレーズの物語だ。

ある日、彼女は死んだはずのママンを見かける。そして、尾行し、会おうとも思うのだが、彼女はどうしても気後れしてママンに会うことができない。彼女はママンのことを思い出していく。そのことが自分自身を探す旅にもなるからだ。しかし、そのママンの経歴は嘘で塗り固められているのだ。深まる謎。ビスケット缶の中の写真と手紙が残った実質で、あとは記憶の中にある。小説はテレーズの現在を描写しながら、断続的に思い出され問いただされる過去を織り交ぜていきながら進む。ボクらの記憶は連続的ではないのだ。非連続の集合体として存在している。それを意味の脈略でつなごうとするのだ。しかし、テレーズによって思い出され問いただされる過去は謎の中に宙づりにされる。だが、そのこと自体がかろうじてテレーズの生を支えているのかもしれない。
それとテレーズが関わる数少ない人たちである翻訳をする男や薬局の女性との交流の温かさ。この温かさが、テレーズを支えるようにこの小説を支えている。冬のパリの中で孤独な魂がほんのわずか救われていきそうな気配が、小説を優しさで包み込む。
また、テレーズは仕事で出合った少女の中に自分自身を見いだして、優しく接しようとする。その姿は痛々しさと切なさがやわらかさを伴っているのだ。そのやわらかさと優しさが、現実感が曖昧で危ういこの小説を、また設定として暗く殺伐としたものになってもおかしくないこの小説を、大きく抱きしめている。読んでいるときよりも読み終えたとき、しばらく小説から沁みだしてきた空気におおわれてしまう。その読後感は、妙に穏やかで、何か離れがたい気分にさせるものがあった。

切なさ、痛さ、いとおしさ、やさしさなどは、そういった言葉の直接表現ではなく、小説の行間から溢れ出したり、にじみ出したり、したたり落ちたりするものなのだ。言葉にすれば、結局そういった感情なのかもしれないという情感の中に、小説を読みながら読者は連れて行かれるのだ。そして、そこに置き去りにされる。置き去りにされるとき、余韻の質は決まるのかもしれない。
心地良く置き去りにされた小説だった。




アントニオ・タブッキ『夢のなかの夢』和田忠彦訳(青土社)

2008-05-14 10:56:55 | 海外・小説
他人の夢を見ることはできるのだろうか?

タブッキは芸術家が見た夢を想像し、その夢を創り上げて、「一人ひとりに捧げる夢のオマージュを織りあげ(訳者あとがき)」る。その夢は、彼の人生の転機であったり、死の直前であったりしたときに夢みられた、刹那でありながら、その人そのものを表す夢である。タブッキはその夢に、愛した芸術家の創作した作品や、彼らの苦闘や希望や恐れを埋め込んでいく。

ゴヤの夢では、彼の絵が連想できるし、彼が人間に対して注いだであろう眼差しが示される。アンジョリエーリの夢は、彼に起こった出来事が及ぼしたであろう体と精神への痛手が夢の形象となって表れる。コウルリッジの詩を生かしきった彼の夢。「月に魅せられた男」と表題されたレオパルディの夢は月のイメージが美しい。死の際を描くスティヴンスンの旅の終わりの夢。ランボーの詩の空気を醸しながら、夢の生き直しと自由を求める出発への憧れを描くランボーの夢。コラージュと批評の合体が見事なチェーホフの夢。自身の無意識が表れるフロイトの夢。そして、それ自体がペソアの変装への言及であり、ペソア自身の異名者探しでありながら、タブッキのペソア探しに繋がっているようなペソアの夢。それぞれの夢がイメージ豊かに作家を語る。

あとがきで和田忠彦が書いているように、これらは「物語のなかの夢ではなく。夢の物語である」。その断章が抱えこむ膨大な物語の情報は、断章として描かれた夢のなかから、さらに夢みられる。断章の断面が想像力のうねりにきらきら輝いている。

これらの断章はタブッキが娘からもらった手帖に綴られたものだということで、この本の冒頭に娘への言葉が書かれているが、その次に中国古謡からの引用がある。
 
 恋人の胡桃の木の下に立ち、
 八月の新月が家の裏手からのぼるとき、
 もし神々が微笑んでくれるなら、
 きみは他人の見た夢を
 夢に見ることができるだろう。

タブッキの夢も読者は見ることになるだろう。
夢についてのペソアの言葉があとがきに引用されている。
「一言で現代芸術の主要な特徴を要約しようと思えば、それは〈夢〉という言葉のなかに完璧に発見できるだろう。現代芸術とは夢の芸術なのだ。」
クンデラも現代小説の重要な要素のひとつに夢の記述と夢の文体を挙げていたと思う。他人の夢そのものを形象化しようとしたタブッキの独創と創造力が楽しめた。




J.L.ボルヘス『伝奇集』鼓直訳(岩波文庫)

2008-05-06 15:22:27 | 海外・小説
ボルヘスを久しぶりに読む。以前より、楽しめたのかもしれない。しかし、以前も楽しかったのだ。だが、今回も読みながら、きっとボルヘスってもっと楽しいのだと思ってしまう。何だか、魔法にかかったみたいになる。真から偽への横滑りを果たしながら、真偽の境はなくなって、終わりが繋がる円環の中で、夢と現実も繋がって、時間は途切れなく、その物語は物語の完結を見せずに物語の時間の中にボクらを置き去りにしてしまう。解読を求めながら、意味づけに固定されない寓話の群れは、壮大な図書館である。次の物語への契機に満ちた物語の元型でもありながら、それまでの壮大な知に裏付けられた物語のネットワークでもある。多くの作家がこの人に影響されたのがわかるような気がする。まさに円城塔の『つぎの著者につづく』の世界なのである。

夢が常に他人によって夢みられた夢であるとして迷宮のように繋がっていく「円環の廃墟」。知の図書館への夢を搔き立て、人類の宿命も思わせる「バベルの図書館」。現代文学の推理小説的構造を先取りしている「死とコンパス」。実在と偽書の間を往き来する探求ものも面白い。きっと、ボク以外の人たちは、ボルヘスを読んで、もっともっと楽しんでいるのだと思いながら、自分にできるところまででしか楽しめないボルヘス。それでも、じゅうぶんに楽しみながら、「平原が何かを語りかけようとする夕暮れのひとときがある。だが、それは決して語らない。いや、おそらく無限に語りつづけているのに、われわれが理解できないのだ。いや、理解はできるのだが、音楽と同じでことばに移せないのだ……。」(「結末」)と言葉で刻まれたフィクションに、酔いしれてしまう。