goo blog サービス終了のお知らせ 

パオと高床

あこがれの移動と定住

野呂邦暢『野呂邦暢ミステリ集成』(中公文庫 2020年10月25日)から

2020-11-21 09:03:21 | 国内・小説

うまいな。それに文章いいな。と思ってしまう。
中短編8編とエッセイが収録されている一冊。長崎生まれ諫早で育ち、作家活動を続け、
42歳の若さで死去した芥川賞作家のミステリ作品を集めている。
「失踪者」は長めの作品。
カメラマンの知人が島の祭礼を撮影に行って失踪する。その彼が残した写真を手にして、
島を訪れる主人公。そこから、失踪者となってしまう主人公のサバイバルが始まる。
地理的判断や生き残るための食生活などが、裏表紙にも書かれているように「端正な文体」で
書き込まれていく。話の転がし方や構成、さりげない伏線に上手いなと思いながら、その文体、
表現に惹きつけられる。

例えば、
  犬が吠えた。
  逃亡者はぎくりと体をこわばらせた。石にでも化したかのようにその場を動かなかった。しかし、
 犬はずっと下方、墓地のはずれで吠えたらしかった。隆一は我しらず身震いした。
とか、
  森には夜があった。
  水の音と枝々をゆるがす風の気配がすべてだった。遠くでかすかに犬の吠える声がした。隆一は
 唇を歪めた。

描写する筆致が、登場人物の外部と内面をきちんと描いていく。
削がれた文体が詩的な雰囲気を帯びながらも散文としてそこにある。

そういえば以前読んだ短編「白桃」はよかった。
それから丸山豊の詩集『愛についてのデッサン』に触発されるようにして書かれた
連作小説「愛についてのデッサン」も面白かった。

埴谷雄高『死霊』(講談社)

2020-05-31 14:44:52 | 国内・小説

読了。
すごかった。「形而上小説」か。
埴谷が圧倒的な影響を受けたドストエフスキーのように、とにかく語り合いで、思索と思索の交錯で、ほぼ全篇が貫かれている。
といいながら、とても詩的な情景描写や心象描写もあり、その文体のうねりにも酔えた。
今回の巣ごもり状態で埴谷の世界を堪能した。で、最後の2章の時に巣ごもり状態が終わり、それからが案外時間がかかった。
学生の頃知人は浪人生活の時に勉強しないで読んだよと言っていたけれど、そんな状況が読みを進めるのかも知れない。

太平洋戦争後すぐに書き始められ、長い中断を経て75年に5章が書かれ、9章は95年。そして未完で終わっている。
ほぼ50年。小説で描かれる内部粛正や活動家といった状況は時代の流れの中で変質したが、当初から作者が抱えていたであろう問題や
思索を一貫して壮大に描きあげていく驚嘆の小説。
そしてこの長いスパンによって、一貫する問題でありながら科学の進化深化に沿って、より新しい宇宙論や量子論が加わっているように思う。
散りばめられた観念を表すことばやイメージ、そして暗黒や深淵を思索しながらも随所に溢れる諧謔。
会話の途中に入る「あっは」や「ぷふい」という感嘆詞も含めて思わず笑ってしまう表現もたくさんあるのだ。

はじめのはじめの単細胞生物の語りから宇宙のみる夢までの極小から無限大へと駆けめぐる想念。
そして、その中のわずか200万年ほどの人類が生み出した誤謬の歴史。私は私を離れられるのか。
実体と虚体。虚在と虚無。我が我である自同律の不快。「我」に拘泥し、囚われたところで思考の袋小路に陥る現象世界を
超えることは可能なのか。そもそも可能は不可能、不可能は可能、「ある」は「ない」で「ない」は「ある」などなど。
窮極の革命、窮極の自己否定とは。思念が思念の宇宙をつくっていく。それこそがまさに虚体の宇宙になっていく。

ああ、これは案外、今のアニメ世代の人にも受けるのではと思った。
突き抜けていく小説はSFのジャンルにも入っていく。

司馬遼太郎『国盗り物語』(新潮文庫)

2020-04-21 23:38:35 | 国内・小説

やっぱり面白い。久しぶりに司馬遼太郎の長編を読む。
この文庫は、数年前に大阪の司馬遼太郎記念館で買った。ブックカバーがいい。

主人公は全4冊の最初2冊が斎藤道三。後半2冊は明智光秀と織田信長。
小説連載は63年から66年、NHKの大河ドラマになったのが1973年ということ。
執筆時期は『竜馬がゆく』とかぶっている。明智光秀が幕末の奔走家に似ているという表記があったこともうなずける。
すでに歴史を経たからこそ鳥瞰できるのだろう。ひとつの作品からどんどんと次の作品がつながっていく。
作者自身が歴史の豊饒のただ中を疾走、散策していくようだ。だから、司馬の小説はだんだんと物語から離れるように、
作者が常に時代や人物と語りあい、作者自身が現代と歴史的時間の中を往来するようになっていったのだろう。だから、
今魅力的な歴史家磯田道史のように、常に歴史を現代史として見つめる眼差しにつながっていくのかもしれない。

それにしても、司馬遼太郎の小説の魅力の一つは、未知のキャラクターを際立たせることだ。
坂本竜馬もそうだが、道三も明智光秀も知る人しか知らない歴史上の人物だった。しかも道三や光秀はむしろ悪人。
それを司馬は活写する。『坂の上の雲』の秋山兄弟もそうだ。『花神』の村田蔵六もだ。
で、その人物の魅力的な定稿を作ってしまう。

特に初期の小説は時代を画然と分かつために能力の限りをつくす個性が躍動する。一生青春のように生きる人物が、
旧体制から抜け出そうとする時代の青春と共に生きる「颯爽」とした姿を描き出す。そこに惹かれる。
でも、その一方で『燃えよ剣』の土方歳三も書いている。信長と光秀の比較も、考えようによっては竜馬と土方の違いなのかもしれない。
もちろん、信長はある意味凶暴だが……。
ただ、彼らはみな自らの合理を貫く。もちろん人間は不合理であり、情念を抱え込んでいる。
だが、司馬は明晰な合理性と果敢な行動力で時代の狂気や不合理と抗う人物を屹立させる。
彼が何度も語っている昭和の戦争に向かう狂気と、戦争の不合理への強い憤り、そして何故そうなったのかという執拗な問い、
そして悔いがそこにはあるのだろう。

いま、大河ドラマは「麒麟がくる」で明智光秀を扱っているが、道三のミッションをこなすためにあちらこちら動き回る活動的な光秀や、
鉄砲の名手ぶり、黙考するが感情的な面などなど、司馬が作り上げている明智像がかなり投影されている。
で、今回も司馬節に酔ったのだが、司馬の文章は詩的だったり、漢文的だったり、随筆風だったりと楽しめる。
センテンスの展開も早く、心地よい。
たとえば、道三のいくさに向かう情景。

  月が馳走(ちそう)といっていい。
  するどく利鎌(とがま)のすがたをなし、峰の上の天に翳(かげ)ろいのない光芒(こうぼう)をはなちつつ、
 山をくだる道三とその将士の足もと を照らしていた。

とか、

  どの村にも春が訪れている。城壁から遠望すると、梅の多い村は白っぽく、桃の多い村は淡々(あわあわ)と紅(あか)く、
 ひどく童話的な風景に みえた。そういう春の村々にむかってむなしく貝を吹きたてている道三の兵もまた、一幅の童画のなか
 の人ではないか。
 
とか。あとひとつ、ああ、こういう書き方をするのかと、

  光秀は決意に時間がかかる。
  が、いったん決意したとなると、そのあとのこの男の行動は、構図の確かな絵師のように、運筆が颯々(さつさつ)としている。

「颯々」か。うまい表現だよな。

歴史上の人物がどんな持ち物を持っていたかは、持ち物が残っていればわかるのかもしれない。
また、様々な記録も残っているだろう。そこから、その人物の嗜好性や価値観に至り、では、この人はどんな暮らしををして、
どんな人を好んで、であれば、この場面があったかもしれなくて、実際にその場面が記録されている場合もあり、そこではこんなことを
言ったかもしれなくて、だから、この出来事が起こって、その出来事のときにはこのように考え、あるいはこう衝動的に感じて、と想像して、
創作して、ああ、人物は、こうして小説のなかを生きるのだと思わせてくれる。だから、司馬遼太郎は小説家なのだ。
と同時に、その歴史上の人物が、そういうふうに彼の時代のなかで生きていたのだと思わせるところが、司馬を歴史の語り手にする。
さらに、そこに司馬という現代の知性が、歴史をどう捉えるかという価値観を記述し語る。確かに司馬は歴史家でもある。
司馬史観ということばが生まれてしまうのかもしれない。本人はこのことばをどう思っていたのだろう。
彼は一貫して想像力に溢れた歴史小説家だと僕は思う。それが司馬遼太郎の最大無二のすごさだ。

見てきたように語ることが実際ではない。だが、見てきたように語られたものが持つ想像力と創作力は、
そこにあった歴史がどんな夢や現実を孕んでいたか、どんな彼が彼女が、あなたが私が生きていたかをあぶり出していく。
やっぱり、司馬遼太郎は面白い。

深緑野分『オーブランの少女』(東京創元社 2013年10月)

2019-11-27 11:17:23 | 国内・小説

気になる作家の一人。
というより、すでに今ごろ、そんなこと言っているのと言われそうな作家のデビュー作「オーブランの少女」が収められた短編集。
いやいやいや、面白かった。
ああ、そうくるのかというストーリー展開。そうなのだ、ボクらは、私たちは時代の中で生きているのだ。
でもね、その時代がどう動いていて、今、どこに自分がいるのかなんてなかなかわからなくて、それ自体がミステリの土台なのかもしれない。
それをロマネスクに描いていく。どこか翻訳体のように、どこか語り物めく語彙力を駆使して。それがとても小説を読む愉しさを喚起してくれる。
構成も、作家である「私」が手記を手に入れ、それを作家である「私」が物語として書き記すという構成が採られている。
そうなのだ、今物語るとは、物語ることを記す状況を物語るという二重構造が必要とされるのかもしれない。
そして、この小説では、そのことが歴史の、時間の経過を、今と繋げている。

  オーブランほど美しい庭は見たことがない。
 湿り気を含んだ薫りの良い黒土に、青々繁々と奔放に育つ植物たちを目の前にすると、
 大地は生命の母などという陳腐な文句でさえ心からまことだと感じられる。

小説は、こう書き出される。
美しいオーブランの館に集められた少女たち。彼女たちはなぜ集められたのか。そこで何が行われたのか。行われようとするのか。
どこか「少年少女世界文学全集」にあるようなテイストで描き出される世界は、とても巧妙な展開を見せる。
そしていつか「少年少女世界文学全集」から離れていく。まるで、読書好きな少年少女が、そうやって読書の森に迷い込んでいくように。
小説は、エンタメ小説の要素もさまざま取り込みながら、不思議な格調をもった文体で綴られる。

なんだか、アメリカやイギリスにはこんなテイストの小説はありそうだけれど、とても珍しく新鮮な印象を持った。
『戦場のコックたち』と『ベルリンは晴れているか』いつか必ず読むぞ。

紅玉いづき『現代詩人探偵』(創元推理文庫 2018年4月13日)

2018-08-26 10:04:34 | 国内・小説

ミステリには違いない。
ただ、犯人捜しや謎解きミステリとは違って、いわば動機探しミステリであり、そこにある謎は、動機を孕む「人」という存在が
不可解なものである以上、より深まるばかりなのかもしれない。で、あれば「謎が解ける」はずのものがミステリであるのならば、
むしろ反ミステリかもしれない。そこが面白い。
詩を扱ったミステリは多い。古歌、民謡、数え歌から現代詩まで、詩とミステリは親和性が高い。詩に沿って事件が起こる、ある
いは事件の背後に詩があるという小説を想像して読み始めたのだが、それもきれいに裏切られる。作品としての詩が事件にからむ
のではなく、確かに絡まないわけではないのだが、その絡みよりも、詩を創作する「詩人」の置かれた状況と内面を明らかにしよ
うとする小説なのだ。ここで書かれているのはむしろ創作者の苦悩と、その苦悩をつまびらかにしていくことの徹底的な徒労さな
のだ。
では、それが面白いのかと聞かれれば、うん、面白かった。ああ、こんな展開もあるのかと読みすすめていくことができた。

ストーリーの概要はこう。
地方都市でオフ会が開かれる。会は「現代詩卵の会」。参加者は9人。詩を書き続けることを確認し合い10年後の再会を約束する。
そして、10年後集まったのは5人で、4人は自殺や不審な事故死を遂げていた。そのオフ会のメンバーで、現在25歳(最初のオフ会の
時は15歳)の「探偵くん」と呼ばれる主人公が、死んだ4人の亡くなったときの状況となぜ死ななければならなかったのかを探って
いくという小説だ。
各章の最初に登場人物が書いたとされる詩が、掲載されている。「探偵くん」ということばにはあきらかに萩原朔太郎の詩のイメー
ジがある。
小説の冒頭は

  詩を書きたくて詩人になった人間なんていない。

確かに、そうかもとも思う。最初から、詩を選んだ詩の書き手はどのくらいいるのだろう。そして、「詩を書いて生きていく」とは
どういうことなのかを問い続けていく。詩が死を抱え込み、詩人は常に創作の行き着く場所として死に包み込まれるということが、
確認されるように、何度も繰り返されていく。
創作し続けること、そこには罠のようにタブーが待ち受けている。そして、作品と作者の間にある、この小説最大の、もしかしたら
唯一のミステリらしいミステリも仕掛けられている。

孤独や苦悩は、そのただ中にある人にしか感覚されないものかもしれない。そこでは晴れわたる謎はなく、謎は謎を呼び込むだけな
のかもしれない。それでも、表現者として、そのただ中で生きていくという決意のようなものが表れている小説だ。

  俯き加減で道を歩いている間、僕は間違った道を歩いているような気がしていた。行っ
 てはならない場所に、向かっているような。それでも足を進めたのは、他に行くところも
 なかったからだ。

  対話は生きている者にだけ許された特権で、沈黙は死者にだけ残されたものなのだろう
 かと胸の中で自問する。僕の中には言葉が渦巻いている。詩になれずに、死にゆく言葉達。

  僕を殺した、僕の生きた意味を。(詩「探偵」の一節)

  ふさわしい人が欲しがるまでは。悲しみは、ここにあるべきだと思う。この家の人達が
 破棄することも可能であるように。
 残すことよりも、時に大切である、壊してしまうこと。

  理性で操れない言葉は獣の叫びと一緒だ。

  ここには人の死が詰まっている。それに対する言葉が。思いが。どこにもいけない思想
 が。

書かれていく一節に、魅力的なものがあって。
ただ、その流れは主人公の心の動きそのままに、たどたどしい流れとともにあり、だからこそ立ち止まってしまう。迷うにように
すすみながら、謎の暗がりを感じながら。
そして終章、一人ひとりの死が明らかになっていったことよりも、解けない謎にむしろ心を動かされた。