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何も考えずに、でも何かを求めて、鉄道の旅を続けています。今夜もmoonligh-expressが発車の時間を迎えます。

津川の風景・街並み・文化風土は「やる気」の塊

2020年11月05日 | 旅行記・まち歩き


本当に阿賀町の皆さんには、うるさいほど付きまとってしまいごめんなさい。6回連続は、初めてのことではないだろうか?
先に津川の町のことについて触れていればいいのに、ついつい美味しいものを先に紹介してしまったが、津川の町自体とても魅力的なので、シリーズ(?)の最後としてご紹介する。

上の写真は、阿賀町の中心地である津川のまちのシンボル「麒麟橋」と「麒麟山」である。この辺りには、切り立った山が多く、これまでも紹介してきたとおり阿賀野川の景色と組み合わさった景勝地があちこちと多い。
かのイザベラ・バートは、「日本奥地紀行」で1878年7月1日に津川に到着し、見所多い津川のまちを散策。津川から阿賀野川を船で下る途中、「ライン川より美しい」と絶賛している。日本の農村部の文化水準の遅れと汚さなど、津川に入る前は酷評が多かったバードだが、津川だけは至極お気に入りの場所だった。
津川は江戸時代、会津藩の要所で「河港」として栄えた。上の麒麟山を間近にした写真の下流100メートルほどのところに、「大船戸」という港があり、会津から陸路で峠越えをした荷物や、新潟から川船で運ばれた荷物をたがいに積み替える場所だったようだ。



この写真は、当時の大船戸と言われている場所を撮影した貴重なもの。旧蔵屋敷・代官所に建設された「狐の嫁入り屋敷・川屋敷」に展示されていた。
街並みもいわゆる「宿場町」スタイル。通り沿いに間口が狭く奥行きが長い屋敷が連なる。雁木(いわゆる雪よけの私設アーケード)は、上越市高田のものより古くからある。前回紹介した「塩屋橘」付近から、有名な鉤型(かぎがた)クランク方向を撮影している。宿場とはいえ、会津藩にとっては重要な拠点だったことが分かる。
そうした拠点だったことで、人が集まり、情報が行き来し、文化が栄え、町自体が魅力的なものとなったのだろうが、実は江戸初期に大火に見舞われて、歴史的な建造物は少ない。



「狐の嫁入り行列」は、地域活性化のイベントであるとして数々の賞を受賞。(上の写真は、「狐の嫁入り屋敷」で。)
麒麟山に狐火(いわゆる謎の人だま・鬼火)が多かったと言われ、それが世界一の出現率?(誰が言ったが分からないが…)まあ、それにあやかる幻想的なイベントとして、いまでも注目を集めている。
行列には、市民や観光客がきつねに扮した化粧やお面をつけて練り歩き、公募により択ばれた花嫁・花婿が、麒麟山の麓の城山橋で出会い、結婚式・披露宴を上げるというものだ。
祭りの当日(毎年5月3日)は、係員はもちろん、高速道路の料金所職員や警備にあたる警察官までメイクするんだとか。意外と新しくできた祭りとはいえ、地元に伝わる文化・風土が生んだ「やる気」なんでしょうね。
コメント
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