同郷の仲間とぶらり鎌倉に出てみた。以前に横浜や大船に住んでいたという人がおり、地理に詳しく助かった。 小さい頃の遠足や旅行の記憶をたどりながら、それぞれの記憶を話し合い「そうそう」とか「そんな事有ったっけ」、「エッ全然覚えていない。」など思い思いに語り合った。 気が置けない仲間ほど、気楽で楽しい。 歩くのは、あまり得意でない仲間なので、月に 1度は飲み会以外にウォーキング(アルコール会)をしようと言うことで始まりました。 横須賀線を北鎌倉で降り、「どっちに行くの 」から始まり、平日なのに凄い混雑でビックリ。 「皆さんの流れに付いて行けば大丈夫だから」と言い、まずは鎌倉五山第二位の寺格を持つ臨済宗円覚寺派の総本山『円覚寺』を参拝。
開基は鎌倉幕府八代執権の北条 時宗、開山は無学祖元(むがくそげん)、創建は弘安5(1282)年と言われています。 御本尊は仏殿に安置された木造「宝冠釈迦如来坐像」。
明治22(1889)年に横須賀線の開通で寺域が分断されてしまいましたが、以前は広大な境内であったとのことです。
私達がこうして、
今、生きているということは、
そこに仏様がいらっしゃる
ということなのであります。
それが何よりも尊いものであります。
その事実がどれだけ素晴らしいことであるか、
心の底から感動して気づくことが大切です。
そのように本当の自分に目覚めて、
各自それぞれが、それぞれの生活の中で
明るく楽しく生きることが、
禅の教えであります。
(円覚寺パンフレットより)
次にのんびり東慶寺参拝。 今日はお寺で祝いの儀式が執り行われており、拝観料なしで参拝できました。
開山は北条 時宗の妻「覚山尼」で弘安8(1285)年の創建。 開山当初から縁切寺法を定め女性救済にあたったとのことです。
女性はかんざしや草履など身につけているものを境内に投げ込めば駆け込みとして認められ、たとえ一国の城主といえども男性は不可侵であったようです。
鎌倉街道の巨福呂坂を登り、横須賀線の踏切手前を右に折れ、鎌倉五山の第四位にあたる臨済宗円覚寺派『浄智寺』を参拝。
浄智寺が建つ山ノ内地区は、鎌倉時代には禅宗を保護し、相次いで寺院を建てた北条氏の所領であったので、今でも禅刹が多い。
山を挟んだ隣りが駈込み寺の東慶寺で、その向かいには円覚寺があり、建長寺も数分の場所にある。 どの寺院も丘を背負い、鎌倉では「谷戸」と呼ぶ谷合に堂宇を並べている。
寺域が背後の谷戸に深く伸び、竹や杉の多い境内に、長い歴史をもった禅刹にふさわしい閑寂なたたずまいを保ち、うち庭の隧道を抜けると、洞窟に弥勒菩薩の化身といわれる、布袋尊が祀られています。
次に鎌倉五山の第一位『建長寺』へ。 建長寺は巨福山建長興国禅寺といい、臨済宗建長寺派の大本山です。
今から約 760年前 建長 5(1253)年に鎌倉幕府五代執権北条 時頼(1227~1263)が建立した、我が国最初の禅寺です。宋より蘭渓道隆を招いて創建した。
今も 10余の塔頭を有する壮観さで、奥の半僧坊までは長い階段が続いている。 本尊は地蔵菩薩座像。
国宝の梵鐘をはじめ重要文化財、名勝史跡も多い。
尚、「建長汁(けんちんじる)」は建長寺発祥の料理とのことです。
1寺院を参拝するのも意外と時間の掛かるものです。 巨福呂坂切通しを抜け鶴岡八幡宮の境内に入ったのは 13時近くであった。
さすが鎌倉メインの八幡宮であり、土日祝日を感じさせるような混雑振りに驚いた。 参拝後は隠れ銀杏があった階段を下り、
舞殿から真っ直ぐに太鼓橋へと表参道を進み、大きな三の鳥居を抜け小町通りに入った。
八幡宮の参道に比べたら小町通りは狭くて、仲間の姿を見失ったら大変とキョロキョロする暇もなかった。
とても小町通りの店では食事のできる状態ではなかったが、詳しい仲間が小町通りを1本裏に入り、静かなお店で食事ができてラッキーだった。
食後は由比ヶ浜大通りから長谷通りをブラブラ歩いて鎌倉ならではの高徳院「大仏殿」へ。
ここは小学校の遠足でも来た思い出があり、途中の街並みや高徳院近辺の変わりように皆驚いていた。
浄土宗のお寺で、大仏様の正式名は「阿弥陀如来坐像」と言うようです。 大仏様の裏に観月堂があり、その横に与謝野晶子の歌碑が立っています。 私たちが幼い頃に見た端正な顔立ちは変わらず『かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな』と詠まれています。
次は長谷観音の名で知られる浄土宗のお寺、正式名は「海光山慈照院長谷寺」を参拝。
広い境内には観音堂をはじめ阿弥陀堂、地蔵堂、出世開運授け大黒天を祀る大黒堂と見どころが充実しています。
展望台からは由比ヶ浜はもとより、遠く三浦半島や相模湾が一望できます。