修学旅行や個人的な旅行で、京都は誰しもが京都情緒を味わいに訪問をされていると思います。 ガイドブック 片手に四季折々の京都を感じさせてくれる寺社仏閣。 巽橋付近の新橋通りや白川南通り、新門前通りなど風情満点の通りをそぞろ歩きするのも楽しい。
名だたる寺社仏閣はほとんどの方が参拝されていると思いますが、方広寺とか豊国神社は行かれたことがあるでしょうか 歴史的には有名な所ですが参拝者が少なく、のんびりと参拝できます。
でも今年の9月23日にタモリさんの「ブラタモリ」で放映されたせいか、1 度目の時よりも参拝者は沢山見られました。 テレビの影響は凄いですね。
方広寺のある一帯は、秀吉ゆかりの史跡が沢山あります。 方広寺と境内を並べるのは、豊臣秀吉を祀る豊国(とよくに)神社。別名「ほうこくさん」。 伏見城の遺構を移した立派な唐門と、遺宝を守る宝物殿。
太閤さんにちなんで絵馬はひょうたんの形をしており、鈴なりにぶら下げられた絵馬は、まさに千なりびょうたんといったところ。
一般に大仏と聞けば、まず思い浮かぶのは、奈良にある東大寺の大仏だと思います。 奈良の大仏は、世界最大級の木造建造物として国宝にも指定されている金堂(大仏殿)に鎮座する本尊の廬舎那仏坐像で、像高は 14.98mもあります。
ところが、京都にはかつて奈良の大仏をしのぐ巨大な大仏が存在していた。 それが方広寺の大仏であります。
天正13年(1585)、関白に就任した豊臣秀吉は翌14年、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東山東福寺の近傍でその工事を始めました。 がほどなくこの工事は中止され、六波羅のこの地に寺地を変更して再開、文禄4年(1595)に大仏殿がほぼ完成すると、高さ 18mの木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。
ところが翌年の大地震で大仏が大破し、慶長3年(1598)には秀吉もこの世を去ってしまいます。 その後、子である秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中 鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、慶長17年(1612)に大仏を事実上完成させました。 しかしその後 鋳造された梵鐘の銘文《国家安康 君臣豊楽》が徳川家を呪詛(じゅそ)するものであるとして徳川家康が異議を唱え、大坂の陣が起こり、豊臣氏が滅亡してしまったことは歴史上大変に有名であります。
現在は大仏も大仏殿もなく大寺の面影はないが、国の重要文化財に指定された因縁の梵鐘は存在しています。
その後の徳川政権下でも大仏殿は維持され、寛政10年(1798)に落雷で炎上するまで「京の大仏つぁん」として都の人々に親しまれました。
巨大な石塁(国史跡)で囲まれた伽藍は西向きに作られ、規模は南北約 260m、東西約 210mと推定されています。
大仏殿は回廊で囲まれ、西側正面に仁王門、三十三間堂に向かう南側には南門が開いていたようです。 仁王門跡から西へのびる道が正面通りと呼ばれることも方広寺に由来しています。 正面通りはとても広く、交通量が少ないので沢山のタクシーが、お客さんを待っています。 また、西側の十字路を右折すると「京都大仏前郵便局」と大仏の名をとどめております。
なお、方広寺の名称は、東大寺の重要な法会(ほうえ)である方広寺(ほごえ)にちなむと言われています。
現在の大仏殿跡緑地 は 2000年に遺構の状態を確認するための部分的な発掘調査が実施されました。 調査の結果、大仏殿の正確な位置が判明し、その規模も南北約 90m、東西約 55mという、現在の東大寺大仏殿をしのぐ壮大さであったことが、改めて確認されました。
三十三間堂前の七条通りと大和大路通りの角には京都府東山警察署「大仏前交番」があります。
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