Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「正義から享楽へ 映画は近代の幻を暴く」宮台真司

2017-04-08 02:47:42 | book
正義から享楽へ-映画は近代の幻を暴く-
クリエーター情報なし
垣内出版



宮台真司氏が再開した映画評論集。

巻頭に書かれているように、映画評論というよりは「実存批評」という形式をとり、
一般的な映画批評とは趣が違う。
シネフィルさんは怒るかもしれない。

しかし、映画をツマにして社会学的な世相を切るというばかりではない。
現代の社会学的な様相をよく反映し、あるいは社会の構造への気づきを促すような映画がこのところ増えており、
またそういう映画を観客も求め始めているという状況の読みが、宮台氏を再び映画批評へと駆り立てたという面がある。
そういう期待感を持って、映画製作と映画鑑賞のトレンドとはなにかを考える上でも面白い論考だと思う。

もとより映画愛というよりは、映画の体験が自分に何をもたらしているのかを知りたいタイプのワタシとしては、
こういう批評の方がしっくりくるのです。

映画体験が、自分を含めた社会・パーソンもしくは世界の関係性への気づきを促しているのだとすれば、
そのように受け止め、そのように読む力をこちらもつけておきたいところかと。

***

内容はもう読んでいただく他はなく、下手な要約など恐ろしくて出来ないんだが。。。

いくつかの(二項対立的な)図式が全体の鍵となっているのだけど、例えば、、


黒沢清の作品の多くは、通過儀礼〔離陸→渾沌→着陸〕の3段階を辿る。

離陸する元の大地は、「世界」ならぬ「世界体験」の生、
言語的にプログラムされた社会を自動機械的に生きる受動的な存在である。

そこに事件が起き、渾沌が訪れる。渾沌とは、コミュニケーション可能な世界=社会の外側にある
「世界」の気づき、言語以前のカオス。

主人公たちは渾沌を経て再び社会を、日常を生き始めるが、
それは最初にいた自動機械としての生を生きることはもはや不可能。
渾沌の中に浮かぶ奇跡の筏としての「社会」を、そうと知りながら「なりすまして」生きる存在となる。


大ざっくりこんな感じであるが、このことの意味を、哲学や社会学、
精神分析や文学から宗教から全動員して多面的に説きほぐして、
昨今の社会の右傾化とかトランプ現象とかに繋げていくので、
深いというか、世の様々な事象の繋がりを考えることができる。

とともに、特に黒沢作品などのページでは、例えば渾沌が映画的にどのように
表現・演出されるのかを掘り下げているので、ファンにも結構面白く読まれるのではなかろうか。

もちろん上記のような単純な図式化では終わらないので、読みでがあるし、繰り返し読みたいところです。

しかし紹介が難しい本だな・・・・

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