Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「鏡」アンドレイ・タルコフスキー

2017-04-10 22:49:03 | cinema
鏡 Blu-ray
クリエーター情報なし
IVC,Ltd.(VC)(D)



齢とともに、タルコフスキー作品ではこれが一番好きかもと思うようになり、また観たくなったので観ました。

BD版は色鮮やかで解像度もよく、また鮮烈な体験となりました。フィルム+劇場での体験とは異質な気もしますが、時代の流れですな。

****

「ノスタルジア」などで顕著だが、極めて個人的なものの解決や成就が、
世界の救済につながる、という、いささか「セカイ系」風なテーマがタルコフスキーにはあると思うが、
その個人的なものの解決・成就〜救済とはそもそもなんじゃろか?という問いと探求が、
この映画のひとつの切り口ではないかと思う。

ひとつはノスタルジー。
心に深く根ざしている過去の記憶、出来事、情景、確執を見つめ、大切にすること。
そのことが人の魂を救済する。
確執を明らかにし呪縛から逃れるとかそういうことではなく、
酸いも甘いもそのままのものとして向き合うことで訪れる癒しのようなもの。

二つ目は、超越的なものの理解と交流。
冒頭近く、アナトーリー・ソロニーツィンが語る自然との交流。
冒頭の吃音少年が催眠術により変貌を遂げる(と思われる)こともまた、精神の深遠な作用。
母の留守に現れた祖母が、カップの熱を残して突然消えるのもそれ。
母がぶちまけたバッグの中身を拾う時に生じる静電気もそれ。

この二つは全く別の事柄ではない。
記憶の中の雨、記憶の中で吹く風に舞うシーツ、炎、そういったものは、
心に深く楔を打ち込むと同時に、超越的なものとの交感を伴う。
その交感がまたノスタルジックな感情となって蘇る。

この絡み合う二つの事柄を、タルコフスキーは記憶の中のビジョンを
可視化しようとしたり(森を抜ける風、雨の中の火事、滴るミルク、驟雨)、
断片的なドラマとして想像/創造したり(印刷所の焦燥、父母の会話、祖父母の影)する。

時には大文字の歴史と接続し(泥野の行軍)、あるいは言葉による再解釈を重ね合わせる
(アルセーニーの詩の朗読)。

知情意の総体に多層的に訴えかけようとするタルコフスキーの動機に、
映画という形式が見事に呼応している。そういう宿りをここでは観ることができる。

****

今回は鏡のモチーフをよく意識した。
母と訪れた父の故郷の知り合いの家(だと思う)の別室で、
小さな鏡を不穏な意識の元に長く凝視するイグナート少年。

遠い記憶(おそらく父親の幼少期の記憶)の中で、ミルク壺を抱えて静かに鏡に映る少年。

自分を見つめる装置としての鏡、自分を写し出す装置としての鏡。
そこには不可解ながら何故かこの世に在る存在の耐え難い重みのようなものが漂う。

終盤でイグナートが生まれる前の母親が、男の子がよいか女の子がよいか尋ねられ、
逡巡し涙を流すのも、鏡を不穏に見るイグナート少年の心情を先取りしたものだと思われる。
生の不穏。

***

イグナートはおそらくタルコフスキー(アンドレイ)自身と思われるが、
彼の父もまた、幼少期の記憶にとらわれ、母親や妻と確執を抱えていて、
それがまたイグナートに影を落としている。
そのことに触れ、父親の記憶にも踏み込んでいるのがとても面白い。

記憶の世代間の遡行は、随所でアンドレイの父アルセーニーの詩が読まれることによりさらに多層化する。


@自宅BD鑑賞


ちなみに前回の記事

「鏡」の本 について
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