Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「豚小屋」ピエル・パオロ・パゾリーニ

2017-04-02 00:47:19 | cinema
豚小屋 【HDリマスター版】 Blu-ray
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店


豚小屋Porcile
1969イタリア/フランス
監督・脚本:ピエル・パオロ・パゾリーニ
撮影:トニーノ・デリ・コリ、アルマンド・ナンヌッツィ、ジュゼッペ・ルツォリーニ
音楽:ベネデット・ギリア
出演:ピエール・クレマンティ、フランコ・チッティ、ジャン=ピエール・レオー、アンヌ・ヴィアゼムスキー、ニネット・ダヴォリ他

パゾリーニらしい不可解な
寓意に満ちた(と思われる)小品。

冒頭に石版に刻まれた謎めいた文章が朗読される。
ここにはおそらく作品を読み解く鍵が仕込まれているのだが、例によって難解。

1967年以降の世界が舞台だが、冒頭のそれにより、
恐らくは戦後ヨーロッパ世界についての寓話なのだろうとわかる。

映画は二つの世界が並行して展開するが、
レオーとヴィアゼムスキーが登場する世界はまさに現代で、
共産主義革命に沸く一方でファシズムの影が色濃いヨーロッパ。

なんだけど、もう一方の、クレマンティとチッティがつるむ荒野は
時代も場所も判然としない。
中世ヨーロッパ風の意匠なので、そういうことかもしれない。

そして、二つの世界を貫くのが、カニバリズム的なモチーフ。
中世界では文字通り人を殺して食い、残った頭部は黒煙を吹く火口に投げ入れて跡形もない。
現代の方では、ナチスの非人道的行為が随所でかすかに回想されるとともに、
最後にレオーがどうやら豚に「跡形もなく」喰われたらしい、ということになる。

二つの世界の照応が、どうも世界の神話的構造というか
意識/無意識の構造を表しているんだろう。
そういう点では、一切の説明的なことはないが
わかりやすく作られていると言えるのかも。

クレマンティの唯一のセリフである
「私は父を殺し、人肉を喰らい、歓喜に震えた」(だっけ?)
というのはまさに、禁忌があれば無意識には禁を犯す欲望が生まれるという
フロイト的な話であるだろう。

これに戦後ヨーロッパを引っかけてある。
ヒトラーは殺戮的な父親であるが、同時に母性的であるという主旨の冒頭語と、
レオーの両親の姿(男らしい母親と女性的な父親)が繋がっている。
レオーはその両親の子供=戦後ヨーロッパの精神なのだろう。

いずれ豚に食われて跡形もなくなり、
それは我々の無意識の欲望であり
最後は黙っていれば誰にも露見することはない。

てなところかな(全然わからん)

********

最後のくだり
ナチス残党と資本家が手を握り新事業を起こすお披露目の席で
使用人達がぞろぞろとやってきて事実を語る。
そして、ナチス残党は「しーっ」
内緒にしておけばOK!
のシークエンスは、パゾリーニらしいリズム感あり。
だいたいいつもそうだが、エンドロールというものがなく、
バッサリと映画はクローズする。
そこが好き。

レオーとヴィアゼムスキーの口元と音声を思わず観察してしまう。
おそらく二人とも違う人物のアフレコだろう。
違和感ありと友人はいうが、
ワタシ的には、そもそもが神話的映画なんで、むしろ嘘くさくて面白いと思われた。

クレマンティとチッティが並ぶと実に濃い(笑)
他の作品では主役を張るチッティだが、こうして2番手として出てくると
これまた子分くささがよく滲み出て、なかなか面白い。

もう一人のパゾリーニ役者のニネットくんは
確かこの辺りでパゾリーニに寵愛されるようになる。
彼がまた異様に嘘くさい顔をしているのだが、
唯一神話界と現実界の両方に出てくる重要な役まわし。

ものすごい低予算な感じも良い。

冒頭の音楽も田舎ヨーロピアンなかんじで良い。

マルコ・フェレーリが役者として出てるとかそういう話は
あちこちに書いてると思うので割愛。


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