映画の構造分析―ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫) | |
内田 樹 | |
文藝春秋 |
映画を分析するのではなく、映画によってバルト、ラカン、フーコーなどの思想をわかりやすく説明することを目的とした本であると、巻頭に宣言されるこの本は、確かに読みやすく、映画が好きならばとっつきのよい本でした。
ただ、導入や前置き的な概説(現代思想における主要問題を噛み砕いたような部分)はそれなりにわかりやすいのだが、いざ映画を分析する節になると、どうも「映画の分析を通じて現代思想を理解する」という実感は得られない感じがする。
バルトの間テクスト論や(疑似?)記号論のサンス・オブヴィ/サンス・オプチュを導入にした「エイリアン」論は、それ自体ではとても面白いのだが、どうもバルトの思想に迫れた感じがしない。
バルトのいう「鈍い意味」を映画における明示的でないメッセ-ジととらえ、明らかな表のストーリーに反するような裏の説話を見て取るという分析であり(具体的には触れないでおく。読んでのお楽しみ)、その裏ストーリーが表の説話のメッセ-ジを裏切るような内容であることを取って「反-物語」と形容してみるのだが、結局はもうひとつの説話次元を見いだしていることに過ぎず、表と裏の違いはその明示性の相対的な違いだけのように思える。
そうして抽出した表裏の物語がたまたま相反する内容を持っているのを「反-物語」ととらえてしまっているのだが、それはバルト的な「反-物語」としての映画の鈍い意味とは少し違うようにワタシには思える。
バルトが記号論を応用してサンス・オブヴィ/サンス・オプチュと言っていた段階では確かにそれは明示性の相対的違いを指しているととらえても間違いではないのかもしれない。
しかし、このバルトの発見?は、ぐずぐずとくすぶり続け、やがては『明るい部屋』での写真論において展開するストゥディウム/プンクトゥムに発展していくものとして見ないと、なんというか、面白くないのだな。
「反-物語」と言ったときには、それはメインストーリーと異なる説話の生成には違いないのだが、その説話はもしかしたら世界で自分ひとりにしかわからないものかもしれない。もしかしたら自分が生涯それに拘泥して行くことになるかもしれない。そういった意味空間の不可逆な亀裂のようなもの、それを指して「反ー物語」というべきなのではないかしら??
ということで、面白く読んだ割にはなんか釈然としないのでした。
フーコーの例の監獄のモデルの引用についても、なんだか唐突な気がするし。
このもやっとした感じは以前どこかで味わったような希ガス・・・・・・
と思いを巡らしていたらたどり着いたのがこの本。
現代思想のパフォーマンス (光文社新書) | |
難波江 和英,内田 樹 | |
光文社 |
ああ、そうか、この本の著者のひとりであられたか、と。
やっぱバルトの思想はバルトの著作を読んだ方がいいのかも・・・・
人気blogランキングへ
↑なにとぞぼちっとオネガイします。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます