みにくい白鳥アルカージイ ストルガツキイ,ボリス ストルガツキイ,中沢 敦夫群像社このアイテムの詳細を見る |
ストルガツキイ兄弟1967年の作品。といっても当初ソビエトでの発表は果たせず72年に西ドイツで出版、79年に英訳、87年にようやくラトビアの文芸誌に連載された。
ラトビア発表時はタイトルは「雨期」と変更されている。
しかも著者は88年頃から、この小説を86年発表の「びっこな運命」と組み合わせて長編にする構想を持ったというから、西ドイツ版・ラトビア版を底本とした本書は、いまだ最終形態にはないテキストなのである。
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で、おもしれえ。
こういう小説が書けるっていうのはどういう頭なんだろうな。なんというか、幹となる論理構成というものがなくて、常に状況説明を欠いた謎の連続で、書いているほうも読んでいるほうも登場する人物たちも誰も彼もを霧の中に放り込む。立派な木を育てるのではなくて、もやもやとした谷間の霧のようなもの、際限なく広がるくもの巣のようなものを作りだすこと。誰もが不規則発言をくりかえしては状況がこんがらがっていき、破滅とか終末とかの気配をにおわせつつ、しかし劇的なドラマで解決することなく、体中にまとわりついたもやがいつまでも離れずにゆっくり腐っていくような感じ。そういう小説って実はほんとうに危険なのかもしれないな。ものすごく遅く進行する破滅、病魔、退廃。読んでもすぐに気がつかないが、そういうものが実は仕込まれていて、、という類の・・・
ずっと雨が降りしきり止むことのないどこかのうらぶれた街、その街に住む小説家バネフがいちおう主人公のようだが。その街にはらい病院があって、なぜかそこだけは雨が降らない。有刺鉄線と警備兵に囲まれたその病院からは、「濡れ男」と呼ばれる患者がときおりさまよい出るが、外からは中に入ることはできない。病院ではいったいなにが行われているのか?
一方では、街の子供たちの様子が変だ。変というか、聡明すぎるのだ。大人たちのようには生きず考えず、未来を変革することを思う。新人類だ。しかも彼らは「濡れ男」たちとどこかで通じ合っているようである。
ある日突然子供たちが消える。どうやらライ病院の中にいるらしい。病院の外は押しかけた親たちで大混乱。
いったいなにがおきているのか?
そうこうするうちにいつのまにかバネフのねぐらとするホテルのバーには「濡れ男」が陣取り、人々はあわてて街から逃げ出し始める。バネフはいったんは街から離れようとするが、変質してゆく世界を受け止めるべく街へ戻っていく・・・
バネフの住む社会はどうやら大統領閣下を頂点とした圧制国家らしい。国家はどうも件のらい病院を疎ましく思っているようで、バネフに病院批判の記事を書くように圧力をかけたりする。
らい病院はなんだろう。新世代を生み出す土壌のようなもの。あたらしい思想や文学や芸術や科学といったものか。「濡れ男」はその土壌の耕作者、子供たちは新世代を非連続的に飛躍させるミュータント。そんな風に読めるだろう。
これをそのまま、小説が執筆されたソビエト時代の体制崩壊の予言とみることもできるだろうし、だからこそストルガツキイ兄弟はいわくつき作家であったわけだけど、この小説の面白さは、既存の体制の上に立たない新しい思想による体制というものはまた、既存の体制同様に、またはそれ以上にもろく、力のない、病的なものだという視点があるところにある。実験としての社会体制、作られた文化をいくら重ねてもそれを生きる主人公たちは満たされることはない。体制の崩壊と移行を描きつつも、未来に希望を託さない。体制の移行という事象は人間にとって本質的な出来事ではありえないのだという視点なのだ。
世界に育まれつつある「みにくいアヒルの子」は「みにくい白鳥」に育つというわけだ。
これは例えばスタニスラフ・レムが晩年とった政治的態度に通じるものがあるような気がする。と同時に、では人間にとって本質的に意味のあるダイナミズムとはなにか、人間の根となる精神の集合的深層と問う点では、タッチはそれぞれ違うがドストエフスキーやタルコフスキーとも通じるだろう。
それでもこの小説は最後には、その上でなお体制の変動の暁には新しい世界をすがすがしく感じようという、諦念に似た希望のようなものも持っている。このラストをどうとらえればいいのか、そこが面白いところだと思う。
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バネフはねぐらにしているホテルのダイニングでしょっちゅうウォッカやジンばかり飲んでは、飲み仲間たちと愚にも着かない言葉をめぐらしている。
「世界終末十億年前」も「滅びの都」もそうだったが、ストルガツキイではしばしば酒場でくだまいて騒ぎながら物語が進行する気がする。「ストーカー」は未読だけど、映画でも始めと終わりはしっかり酒場シーンがあったからきっとそうだ(決めつけ)。
ドストエフスキーもよく飲み食い場面がでてくるし、これもロシア文化なのかなあ。
「びっこな運命」は「モスクワ妄想倶楽部」として邦訳されている。この二つがどう組合わさるのか、今は両者を読んで想像する他はない。
モスクワ妄想倶楽部アルカージイ ストルガツキイ,ボリス ストルガツキイ,Аркадий Стругацкий,Борис Стругацкий,中沢 敦夫群像社このアイテムの詳細を見る |
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ストルガツキイ作品は、どれも登場人物が魅力的なのですが、私は『みにくい白鳥』のなかでは「知的同胞」が最高に気に入ってます。
「雨の日の試合に強くなりたくて…」てなところに大爆笑でした(^^)
最後も、何事もなかったかのようにみんなで仲良く帰っていくあたりも可笑しい。
一方、ゴーレム氏は、いつも謎めいたことしか言わないのでかなり困惑させられましたね;
こんにちは~^^
そうだ「知的同胞」(笑)ただ出てくるだけですよね~彼ら。可笑しいですね~~。
子供たちも結局どうなったのかわからないし、最高にわけわからんですよこの小説は。
いまは「そろそろ登れカタツムリ」を読んでいます。
この作品を読んで煙に巻かれたらもうあなたはストルガツキーの虜。
でも「滅びの都」「白鳥」「カタツムリ」って、かなりへヴィーな入り方ですねえ。
白鳥族ってなんだか懐かしい響きですねえ、太陽族とかみたいで。
最初に読んだのは「世界終末十億年前」だったですよ。こうして読んでみると、「滅びの都」がなんだか整然としたものに思えてくるですね(笑)