ゼンデギ (ハヤカワ文庫SF) | |
クリエーター情報なし | |
早川書房 |
イーガンの多くの小説の中で既に前提となっているテクノロジーは、演算に人間の意識を移し替えること、
人間は演算で作り出される世界で「生きる」ことができる、というもの。
コンピュータ内に移住するみたいな感じだ。
もしくは自分をアップロードする。
これによって人間はいくらでも長い時間を生きるし、しかるべきデバイスにインストールすることでどこへでも、
どんな遠くでも行くことが出来る。
ということを前提に、イーガンはとてつもなく壮大(でついでに難解w)な物語を提示してきたのだが、
本書「ゼンデギ」は、その前提テクノロジーの黎明期、もしくは誕生のお話。
あるいは誕生前夜。
前提テクノロジーを所与のものとして、壮大で多様な物語を繰り出しているイーガンは、その前提を定番ネタとして活用しつつ、なぜどうやってそれが可能かということについては、触れずにそっとしておいても何の罪もない。
SFというのはむしろ、原理的に「どうやって」が明確でないものを巧妙に感じさせずに前提にすることで、現実の檻を越え、想像の世界に大きく羽ばたくものだと思うのだ。
現にイーガンがそうしたように。
しかし彼はここでその「どうやって」を追求することで小説がひとつ書けることを示した。
それは、アイディアとしてのメタ小説的な試みであるだろうけれど、イーガンを読む上で避けがたく考えることになるモラルの問題(テクノロジーが既存の規範を根底から揺るがす時に我々はなにをどう判断し許容するか)を、小説での振る舞いにも適用したということでもあるだろう。
そのことは、イーガンファンなら何となくさもありなんと好意的にうなづいてしまうような嬉しさを伴うし、ここで展開される「どうやって」は、多くの困難を乗り越えかつ迷い一進一退しつつ進む技術開発の実際のところをよく描いていて、これまた真摯な印象を与える。
テクノロジーの黎明がイランの複雑な政治や生活と絡んで、やはりいつもの技術的なこととモラルの問題にも深く触れるし、その中でのひとりの個人としての思いのようなものもしっかり描くし、要するにいつものイーガン的な感動がしっかり詰まっているので、嬉しいのである。
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訳者の山岸さんが巻末に書いているので、読後に再び第一部の第1章を読み返したみたが、いや、まさに、ここには小説の言わんとすることの多くがぎっしり詰まっているではないですか。
読後の読み返しを強くお勧めですね。
ヴァージンプルーンズやザ・レジデンツの扱いに笑っている場合ではない感じですw
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