Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「そろそろ登れカタツムリ」ストルガツキイ

2008-01-26 05:49:14 | book
そろそろ登れカタツムリ
アルカージイ ストルガツキイ,ボリス ストルガツキイ,深見 弾
群像社

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「そろそろ登れカタツムリ」1966~68~89
A&Bストルガツキイ

これはなんとも手ごわい小説。手ごわいというより、手がかり一切なし、形はあるんだけれど輪郭も形状も一定しない無機物とも有機物ともわからない物体を相手に会話をしようと試みているような気分。なにかをつかもうにもするりするりと手の間を抜けていく。
どうして こんな 小説が 書けるんだ??

***

「ペーレツ」と題する章と「カンジート」という章からなり、全部で11章。章の名称は「ペーレツ1」「ペーレツ2」・・・という調子。
(ペーレツ各6章、カンジート各5章がばらばらに配置される。)

ペーレツとカンジートはそれぞれ人名で、ペーレツはどうやら「森」の近くにある調査研究拠点に派遣された臨時職員らしい。彼はどうもそこでの仕事が彼の本分ではなくて、「森」に行くことが自分の使命だと感じているだけ。しかし森の研究所にいるにも関わらず彼だけに森へいく許可証が下りていない。

一方カンジートは、おそらく森に囲まれた村でナーワという妻と暮らしているが、彼は「町」へいかねばならないと思い、仲間を募っては「あさってには出発する」と言い続けて何年にもなる。

そんな二人が、それぞれのきっかけで森に踏み込むことになるのだが、両者の世界は互いに交わることはなく、関係があるのかないのかそれすらわからない。同じ森なのか違う森なのか、そもそも同じ惑星の話なのかそうでないのか、ぜ~んぜんわからない。

***

「森」はまったく傾向も性質も定かでないアメイジングゾーンだ。
給料をもらいに森へ運ばれたペーレツはいきなり前触れもなく現れた人物といつのまにか会話にまきこまれ仲間を見失ってしまったり、コンテナから勝手に這い出してくる機械に出会ったり、機械たちの寝床らしきぬくぬくした空間に入り込んで機械の雑談を聞いてみたり、わけわかんない。

カンジートは、足元から湯気を立て体が熱い「死人」を撃退したり、村が地中に沈む「悪霊憑き」という現象を目の当たりにしたり、おいはぎにおいかけられたり、「死人」を操るおばさんグループに出会ったりとちょっとファンタジックな冒険系、でもこれもわけわかんない。

***

ペーレツの属する世界がわりと官僚社会の構造を揶揄するような色合いもあり、執筆当時のソ連の社会体制と人間のあり方を批判的に描いた寓話、しかし体制側にはそれと知られないように難解に作られた作品である、と捉えるのは今となっては簡単なことかもしれない。

しかし、小説というのはそうやって図式的に理解してしまえないところが面白いのだ。著者や著者の属する世界の意識・無意識が意図的/非意図的に随所に押さえきれずに顔を出すのが小説というもの。だから優れた小説にはどこかしら割り切れない突出や暴走があるし、冷徹な理論もある。知情意に訴える総合的なエネルギー。
この小説も、このアンチクライマックス、無限の韜晦、アンチストーリー、醜悪な質感といった表層/深層をどっぷりと受け止めることによって、「批判」とかいうすっきりした観念ではない地平で執筆時の、あるいはもっと普遍的な人間と社会のありように触れることが出来る類のものなのではなかろうか。
特にこの作家の場合は、その手の難解さ、御し難さに一生をささげているようなところがある。スタイルとテーマが不可分な作家なのだ。

***

じゃあ、結局なんだいこの小説は?ってーと、やっぱりわけわかんないというのが正直なところ。人間はどんな外面をつくろったところですべからく混乱し鈍磨し疲弊し滅んでいく。つくろった外面だって結局はその混濁の反映である。「森」を知らないうちは森に惹かれ、森に踏み入れると自らを失い、泥土の中をさまよい惑う。
そういう人間観を受け入れることが出来ることが、この本のよき読者の条件なのだろう。

で、ワタシはそういう感覚はかなりすきなのよ。

***

「森」については、カンジートが最後の最後にひとりごちることばにヒントらしき匂いがする。

「ここでは歴史的真理が森の外にではなくて森の中にあり、彼らは客観的法則によって滅亡することが運命づけられている残存生物であり、彼らを救うということは即ち進歩に逆らうことを意味し、進歩という戦線のどこか一角で進歩を遅らせることにほかならないということを知らないのだ。」

森の外の描写は、「管理局」があり「科学保護課」があったりする管理社会=コントロールする社会だが、森の中は土俗的な自然社会のように思える。

管理社会は20世紀の大いなる実験であったと思うのだが、それは結局この小説のように、内側に近寄りがたい森とその住人を抱えながら逡巡を重ねるような社会だったのではないだろうか。

カンジートはこう続ける。
「ただしおれはそんなことに興味はないぞ。(・・・)進歩がおれとどんな関係があるんだ。それはおれの進歩じゃないんだ。ほかに適当な言葉がないから、それを進歩といっているだけの話だ・・・ここでは頭が選択するんじゃなくて、心が選択するんだ。自然の法則は悪くもなければよくもない。それは倫理とは無縁の問題だ。ところが、このおれは倫理と無縁ではいられないんだ!」

進歩という概念に対して不定形な森に囲われた得体の知れない存在に倫理を託すのは、ドストエフスキーやタルコフスキーが革命~管理者会のなかで常にロシア的深層心理を謎めいた形で追い求め表現したことと相通じる感覚だろう。管理や科学で推し量れない力の存在こそが社会の本質だとする、あらがいがたい思いがここにある。

****

しかしな~
刮目すべきは、森や周辺地域のとことん気色悪いな姿だろう。カンジートがさ迷い歩く道についても、

・・・左右両側に底なしの沼が横たわっていた。悪臭を放っている錆色の水から腐って黒くなった枝が突き出していて、巨大な傘状をした毒キノコのねばねばした傘がきらきら輝く丸い屋根のようにもりあがっている。ときどき道のすぐわきで見捨てられて潰れてしまった水クモの家に出くわした。(・・・・)頭上でびっしりとからみあっている梢から、太いみどり色の円柱やロープ、クモの巣のようにゆれている糸が無数に垂れさがって、それがせわしなく根になって湿原のほうへのびていた。貪欲で厚顔なみどりの樹木がもやのように壁となってたち塞がり、音と匂いをのぞくすべてのものを遮断していた。ときどき黄みどり色の薄明かりのなかでなにか落ちてくるものがあった。それは騒々しい音を立てて落下してくると、ねばっこくて濃厚な音をたてて飛沫が跳ね返った。沼がため息をつき、ごぼごぼ、ちゃぷちゃぷと音をたて、ふたたび静まり返った。少したつと、底なしの沼が乱されて発散したいやな匂いが、みどりの帷をとおして道へただよい出てきた・・・

みたいな描写がこれでもかと繰り返しでてくるのにはたまらんね。

片やペーレツ君もやたらとぬれたり泥水につかったり、大変よ。
汚辱はこの小説の重要な肌触りのひとつだろう。

******

あとがきよりメモ

・「ペーレツ」と「カンジート」は別々に発表された。
・1966年にレニングラードで出版されたのが「カンジート」部分で、68年に中央シベリアの雑誌に分載されたのが「ペーレツ」部分。
・後者の出版が当局の批判にあい、出版社編集者の更迭、雑誌の発禁などを引き起こした。
このころからストルガツキイ兄弟の筆禍が始まったとみられる。
・その後他国で部分出版が行われたが、「カンジート」と「ペーレツ」がそろってひとつの作品としてようやく姿を現すのは、ペレストロイカ以降の88年に文芸誌に掲載され、翌89年の選集に完全版が載るのを待たなければならない。
・邦訳は91年。
・タイトルは一茶の歌「かたつむり そろそろ登れ 富士の山」を意識している。直訳は「坂の上のカタツムリ」
・一茶の歌とパステルナークの詩が巻頭に引用されている。


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