Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「ファスビンダー、ファスビンダーを語る 第1巻」

2013-03-16 04:59:43 | cinema
「ファスビンダー、ファスビンダーを語る」第1巻読了。

ファスビンダーのインタビュー集全3巻のうちの第1巻。
ファスビンダーのインタビュー本はドイツでは2冊あり、その内のひとつの翻訳。

本書の特徴は「つくりこまない」こと。
起こし原稿があるものはそのまま全文掲載、それ以外のものも出来るかぎり完全なかたちで載せるという編集方針で、ファスビンダーの話し言葉を生々しく伝えようとするもの。

訳文もその方針を踏まえ、生々しくときに躓き拡散し逡巡する話し言葉でファスビンダーの言葉の性格を形作っている。
もちろんソースがテキストであるし、ワタシは独文に当っているわけでもないし、
ここで醸し出される語り手の像がどれほどファスビンダー本人に近いのかは計り知れないのだが、
この本を読むことで、これまで映画作品を通じてごく間接的に(あるいは直接というべきか)感じていた監督ファスビンダーの存在を、今後はより具体的なものとして感じることができそうである。



第1巻は主に60年代終わりから70年代初めの
アクション・テアーター、アンチテアーターでの演劇活動期についての話。

これらの演劇集団はどうやらなかなかに60年代臭いというか
60年代的コミューンのような性格をもっていたようで、
もちろん採算度外視(というか採算を考えられないだけというか)で
劇場に入り浸り住み込み飲み食いなどしながら短い期間で次々と上演していたような感じ。

そこにファスビンダーは新参者としてやってきて、
新しいものに拒絶反応するメンバーの反発を浴びたりする。
メンバー間の愛憎や劇団や演劇に対する思いもバラバラで大変そう。


ファスビンダーは中心人物であるペーア・ラーベンらとともに次第に脚本演出の中核となっていくのだが、ファスビンダー自身は一方で、集団が共同体として成立し共同制作的に創造性を発揮していくことに理想や強いあこがれを持っていたように見受けられるのが印象的。

実際にファスビンダーらが主導せずにメンバーが協議をしながら、あるいは脚本を書いて持ち寄っての制作も試みたりもしたようだが、現実としては、劇団のことを最優先に考えるメンバーだけではなかったり、自ら進んで役割を果たそうとしないメンバーがいたり、メンバーのほうでもファスビンダーらが方向性を示すことに慣れてそれに頼ってしまったりと、共同制作が成り立たない要素が山とあり。
あこがれとは裏腹に、共同体的集団での経験は、ファスビンダーが中心的な牽引役としての立ち位置と技術を必要悪的に身につけていく過程でもあったようである。

こういうアンビバレントなものを抱えながら制作をしていったということは、ファスビンダーの映画を観る上で、面白い事前知識のひとつだろうと思う。



アンチテアーターでの活動が全然順風満帆ではないがそれなりに評価されていくなかで、映画を撮りはじめるのだが。何がファスビンダーを映画に向かわせたのかは、このインタビューのなかではあまり明確にはわからない。
もともと映画好きだったようであるが、どういうことで演劇ではなく映画に向かうことになったのか。
演劇では限られた空間で限られた観客を相手にするしかないが、映画では多くの人にメッセ-ジを届けることができるというようなことは触れているのだが、まあそれだけではないだろう。

理由はともあれ、映画に向かったからこそ後世の我々はファスビンダーの作ったものに触れることができるわけで、演劇ではそうはいかず、その点ではよかったな。


最初の長編『愛は死より冷酷』がいきなりベルリン映画祭で上映されるのだが、結構評判が悪くw
しかしそこでの酷評、たとえば動きがなさすぎるとかそういうことを受けて
次回作『出稼ぎ野郎』では徹底的に動きをなくしてやろうと思ったとかいうようなことを言っていて、
そういううたれ強さというか評判を真に受けないふてぶてしさが面白い。

また低予算(というかほとんどお金がない)にもかかわらずどんどん新作を撮っていくスタイルは、映画人のあいだでも驚愕の出来事だったようであるが、ファスビンダーとしては金があろうとなかろうと撮る以外にはないんだというようなことを言っていて、これもあまりにもシンプルな行動原理である。
アンチテアーターでの評価や偶然ちょっとした資金提供者がいたりという幸運もあって、ようするに毎回きつきつながらなんとかなっちゃったということで、これもある面ではとてもあの時期らしい新しい映画のスタイルなのかもしれない。


初期作品のフィルモグラフィーなどが付されているが、映画に関してはやはり未見のものが多く、是非観てみたい。
『何故R氏は発作的に人を殺したか』などは、集団創作を実践してみて且つそれに幻滅もした作品であるようだし、唯一の西部劇『ホワイティ』とかも観たい。
共同体的創作についての現実や幻滅を扱った『聖なるパン助に注意』も、上述のような背景を知るとまた面白く観れるね。

*****


ペーア・ラーベンは音楽スタッフなのかと思っていたら、実は演劇時代の中心人物の一人であり俳優もしていたということは本書で知った。ファスビンダーの台頭で音楽家として歩き出しちゃったんだろう。後にラジー賞までもらうw

イングリット・カーフェンは、カーフェンではなくカヴェーンと本人も周辺も発音しているということで、本書ではカヴェーンとされている。これも本書にて知った。

訳者の明石氏とは、彼が昔々某レコードショップで店番をされていたところにワタシが行って、二言三言会話をしたことがあるという接点がある(笑)
もちろん先方はワタシのことなど覚えているはずはない。
どんなことを話したのかも忘れたし。。


第2巻以降の配本も楽しみである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする