だれのものでもないチェレARVACSKA
1976ハンガリー
監督:ラースロー・ラノーディ
原作:ジグモンド・モーリツ
脚本:ユディト・エレク、ラースロー・ラノーディ
出演:ジュジャ・ツィノコッツィ、シャンドル・ホルヴァート、アンナ・ナジ、マリアン・モール
チェレ公式サイト
シネマ・アンジェリカでハンガリー映画をつづけて公開するらしく、
そのうちの1本を観賞。
70年代の東欧の映画なのだが、先入観に反して色も画面も美しく
あたたかな印象だった。
しかし内容はずっしりと重い。
重いのだけれど、ワタシが真っ先に覚えた印象は、
これはカルピス劇場だ~
ということでした。
カルピス劇場は正式には「カルピスまんが劇場」「カルピスこども劇場」というらしいが、「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」の世界。あれからうまく組み立てられたストーリー性をなくして、主人公の境遇だけにしぼったような、そんな映画でしたが、そういう感想も、自分がカルピス劇場な世代だからでしょうかねえ?
舞台は30年代のハンガリーということで、国には身寄りのない子供がうようよいて(うようよというのはわからんが)、そういう子供の引き取り手には補助金みたいのが出るとか。補助金目当てと安い労働力を求めて大人達は子供を貰い受けるんだけど、チェレもそういう子供のひとりだということが、だんだんわかってくる。
このだんだんわかってくるというところがいいですね。
チェレの生い立ちというか、なんで孤児になっちゃったかというのも全然説明がないし。
この説明のないのは、チェレ自身もよく知らないからなんじゃないかなあ?
冒頭から服も着ないで牛を追うチェレ。
そういう境遇、他の子供とはなにかと差別されるチェレはだんだん自分の境遇がわかってくるけれど、いったいなぜ自分はそういう存在なのかというところはきっと謎なんだと思う。
思えば子供にとって(というか大人にとってだって)自分がなんでいまのように存在しているのかはとても不思議なことだ。子供のころは、自分が自分であることを無条件に肯定してくれるものがあるとすると、それは親の愛情くらいだろう。
チェレもそのことを感じていて、自分の謎への回答が「おかあさんが迎えにくる」ということによっていつの日かもたらされるんだという夢想を抱えている。
それだって、自分を納得させるための方便に過ぎないこともまたチェレ自身知っているだろうことがまた悲しい。だからあのラストとなるのだが、それは絶望ではあるけれど、祝祭的なものでもあり、揺れる炎を執拗に撮る手つきには、絶望の向こうの希望をたぐり寄せる儀式めいたものがあるだろう。この映画にカタルシスがあるとすると、それはひとえにあの炎の映像のせいだと思う。
***
最初の家を逃げ出してから落ち着いた次の家には、つかのま心を通わせるおじいさんがいたが(すでに登場の時点で死亡フラグが立っていたけれども^^;)、彼の持ち物が焼かれるシーンがあり、これをみていたチェレが最後に仮想の母親との交感の際に火を使ったことと繋がっていると思う。その前振りがあるから、最後を唐突と思わないで観られるのだ。
絶望を炎によって希望へとつなげていこうとした映画作家は、タルコフスキーである。それを端的にメッセージとしたのは『ノスタルジア』と『サクリファイス』であるが、浄化の炎という系譜で映画を観てみると面白いような気がすごくするな。
2010.2.6sat シネマ・アンジェリカ
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↑なにとぞぼちっとオネガイします。
1976ハンガリー
監督:ラースロー・ラノーディ
原作:ジグモンド・モーリツ
脚本:ユディト・エレク、ラースロー・ラノーディ
出演:ジュジャ・ツィノコッツィ、シャンドル・ホルヴァート、アンナ・ナジ、マリアン・モール
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シネマ・アンジェリカでハンガリー映画をつづけて公開するらしく、
そのうちの1本を観賞。
70年代の東欧の映画なのだが、先入観に反して色も画面も美しく
あたたかな印象だった。
しかし内容はずっしりと重い。
重いのだけれど、ワタシが真っ先に覚えた印象は、
これはカルピス劇場だ~
ということでした。
カルピス劇場は正式には「カルピスまんが劇場」「カルピスこども劇場」というらしいが、「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」の世界。あれからうまく組み立てられたストーリー性をなくして、主人公の境遇だけにしぼったような、そんな映画でしたが、そういう感想も、自分がカルピス劇場な世代だからでしょうかねえ?
舞台は30年代のハンガリーということで、国には身寄りのない子供がうようよいて(うようよというのはわからんが)、そういう子供の引き取り手には補助金みたいのが出るとか。補助金目当てと安い労働力を求めて大人達は子供を貰い受けるんだけど、チェレもそういう子供のひとりだということが、だんだんわかってくる。
このだんだんわかってくるというところがいいですね。
チェレの生い立ちというか、なんで孤児になっちゃったかというのも全然説明がないし。
この説明のないのは、チェレ自身もよく知らないからなんじゃないかなあ?
冒頭から服も着ないで牛を追うチェレ。
そういう境遇、他の子供とはなにかと差別されるチェレはだんだん自分の境遇がわかってくるけれど、いったいなぜ自分はそういう存在なのかというところはきっと謎なんだと思う。
思えば子供にとって(というか大人にとってだって)自分がなんでいまのように存在しているのかはとても不思議なことだ。子供のころは、自分が自分であることを無条件に肯定してくれるものがあるとすると、それは親の愛情くらいだろう。
チェレもそのことを感じていて、自分の謎への回答が「おかあさんが迎えにくる」ということによっていつの日かもたらされるんだという夢想を抱えている。
それだって、自分を納得させるための方便に過ぎないこともまたチェレ自身知っているだろうことがまた悲しい。だからあのラストとなるのだが、それは絶望ではあるけれど、祝祭的なものでもあり、揺れる炎を執拗に撮る手つきには、絶望の向こうの希望をたぐり寄せる儀式めいたものがあるだろう。この映画にカタルシスがあるとすると、それはひとえにあの炎の映像のせいだと思う。
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最初の家を逃げ出してから落ち着いた次の家には、つかのま心を通わせるおじいさんがいたが(すでに登場の時点で死亡フラグが立っていたけれども^^;)、彼の持ち物が焼かれるシーンがあり、これをみていたチェレが最後に仮想の母親との交感の際に火を使ったことと繋がっていると思う。その前振りがあるから、最後を唐突と思わないで観られるのだ。
絶望を炎によって希望へとつなげていこうとした映画作家は、タルコフスキーである。それを端的にメッセージとしたのは『ノスタルジア』と『サクリファイス』であるが、浄化の炎という系譜で映画を観てみると面白いような気がすごくするな。
2010.2.6sat シネマ・アンジェリカ
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