Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」ジョージ・A・ロメロ

2008-11-24 02:15:02 | cinema
ダイアリー・オブ・ザ・デッド プレミアム・エディション [DVD]

ジェネオン エンタテインメント

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ダイアリー・オブ・ザ・デッド

2007アメリカ
監督・脚本:ジョージ・A・ロメロ
出演:ミシェル・モーガン、ジョシュ・クローズ他


非常に面白かった。
よく出来た映画だった。
感動した。

*****

宣伝文句に「新感覚:体験型サバイバルムービー」とあったが、そのような疑似体験的映画では決してなかった。

その惹句が意味するところが、既成の映像的リアリズムの制度(固定カメラ、スムーズな移動=カメラの存在の隠蔽=特権的視点)に対して、それを覆す(揺れ、手ブレ、不器用なズーム、未編集=撮影者の存在の明示=私人の視点)ことによって、逆に新たなリアリティを生み出すという、制度の解体/再構築であるとするならば、『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』はそのようなリアリティの構築もまたなんら従来の制度の構築と変わらないことについてをさらけ出す、いわば制度の解体/再構築についての映画となっている。

映像表現におけるリアルはつねに作られた制度であることを、究極のフィクションである死者の蘇生をモチーフに様々に変奏してみせるこの映画の痛快な面白さは、その視点の複雑な入れ子構造にある。
この映画はそれ自体、登場人物であるジェイソンが撮影し、デボラが編集したDeath of Deathという映像作品として、映画内映画の形で提示される。その結果『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』に関係する視点は次のようなことになっている。

1 被写体である登場人物たちの視点
2 人物を写す者の視点
 (主にジェイソンによるもの、ときにTV、インターネット上画像、監視カメラ映像の撮影者)
3 撮られた映像を編集する者の視点
 (主に編集に関するデボラのナレーションとして登場する。)

通常はこの2と3を隠蔽して1と観客の視点を一致させるのが映画の暗黙の制度であるならば、この映画は劇中に2と3を登場させることにより、構造的に映画を超え、映画(制作)についての映画となっている。
そのうえ、被写体たちがゾンビ禍から逃れつつも映像の撮影と編集を行う製作チームであるという設定により、一連のドキュメンタリー論(写す側と写される側の両方の立場での)が展開されることで、さらにそのメタレベルを複雑にしている。

付け加えるならば、我々は2と3を示されることによってことさらに、その2と3を映画内に仕組んだ、もう一つ上のレベルにおける2と3の存在(すなわちロメロのチーム)を想起せざるを得ないのはいうまでもない。

この多層感には思わず目眩を感じる。
目眩は単にハンディカメラの不調法なパンによるものだけではなさそうだ。
冒頭映画の開始の瞬間からこの目眩を感じることが出来るこの作品は、
メタフィクション/ドキュメンタリーの傑作であろう。

*******

え~、でもぉ、そんな映画は実はいくらでもあるじゃないか、
特にゴダールとか言う人の映画なんかに。。。

・・・そうなんだけどね、この映画の場合は、またややこしいことに人物たちが自分たちで撮っている/撮られているという状況について、不安になったりうざがったり使命感に燃えたり批判したり賛同したり、あれやこれやといろんなことを言うんだよね。よみがえる死者という状況をめぐるドキュメンタリーを作りつつ、ドキュメンタリーを作るとはどういうことかを話し合ったり、時にはいま撮ったばかりのデータをパソコンで編集してみせたりする。その過程もまた映っているわけで。
でもよく考えると、その過程を写す、という過程をロメロが写しているわけで・・・

なんだかゴダールよりもずっとスマートであるような気が。

もちろんスマートでないゴダールというのは
彼にとっての褒め言葉であるのかもしれないがね。。。。

****************

・・・というようなことは、たしかにこの作品の面白いところなのではあるが、
実はこいつに惹かれるのは、もっと別のところに理由が潜んでいるようにも思えてならない。

死者の禍々しい復活、その様態(動きが鈍いとか頭を吹き飛ばせば再度死ぬとかさ)・・・
原因も帰結も明かされないその基本モチーフであるゾンビという設定自体が
なにやらものすごく魅力的なのだ。
なんなんだこの感覚は??

この単純なアイディアが、第1作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド/ゾンビの誕生』からこのかた、尽きせぬ変奏を許しながらも、一本で~んと根っこに横たわっている。
そして幾度とない変奏の末に、そのモチーフはなおも有効であることが今作ではしっかり証明されているのはなんとも感動的である。

そのうえ今回の変奏は、メディアやネット文化の強みと弱み、ドキュメンタリーとフィクションの境界の曖昧さ、極限状況での人間の振る舞いの変わらなさ、そして映像文化の目的についての信仰への疑問、等々と、もう時代のモード詰め込み放題である。

モチーフの魅力と
変奏の自由度
この二つにすっかり酔いしれてしまった95分(!)であったのだ。

さんざん書き散らしておいてなんなんですが、
もう理屈抜きで面白いんですよね(結論がそれかいっ?)

しばらくは、ゾンビ設定の本当の魅力とはなにか?とか考えていそうだwa。。

******



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コメント (4)
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