毎日、ブルーマンデー。毎朝、ブルーマウンテン。毎晩、ブルドックソース。気分は、レッツゴー3匹。
昨晩、生まれて初めてホイコーローを作って食べてみた。美味しかった。もともとソースはあんまり好きじゃなくて、醤油顔だけに醤油派なのだけど(真面目に、小さい頃に醤油顔と言われたことがあって、自分はソースか醤油かを選ぶとき、醤油にしなければならないという刷り込みがされてしまったようなのだ)、たまに思い出したようにソースを味わいたくなるときがある。で、昨日もちょっと使ってみた。
ちなみに、僕はケチャップよりも断然マヨネーズが好き。小さい頃は、ご飯にマヨネーズかけて食べていた。というより、マヨネーズにご飯をかけて食べていた。私見だけど、この4つの調味料の好みは、ソース&ケチャップ派と、醤油&マヨネーズ連合の2つに大別されるのではないかと思っている。フライにドバドバとソースをかける人、フライドポテトにケチャップをぶちまけて嬉しそうにしている人をみると、カルチャーギャップを感じてしまう。そして、そういう人はやはりソース顔の人が多い気がする(あくまでも私見)。もちろん、ソースもケチャップも美味しいと思う。だけど、まっさきに選択肢として考えることは少ない。だから、何はさておきソース&ケチャップな人を目の当たりにするにつけ、ものすごく異質なものを感じるのだ。おそらく、彼&彼女らの祖先は、南方系だったのではないかと思ってしまう。根拠は何もないけど。
でも、これらはやっぱり化学調味料というか人口の味というか、本来あってもなくてもいいもの、という気はする。やっぱり究極的には味付けは塩だけでもいいのだと思う。さすがに、塩が嫌いな人はいないと思う(塩控えている人はいると思うけど)。だって、野生動物は食べ物に調味料なんてかけてない。ライオンはシマウマを食べるとき、タルタルソースなんて使わない。塩だってかけない。シマウマの肉体のなかに、すでに若干の塩分が含まれているからだ。だから、本当は人間、ほんの少しの塩さえあれば、あとはローフードがあれば何もいらないはずなのだ。
ちなみに、巷ではいろいろな健康法が謳われているけど、僕が基準にしたいと思っているのは、それが文明以前の人類の生活に適ったものであるかどうかということだ。もし昔の人も同じ事をしていたのであれば、おそらくそれは自然の摂理に従った、まず間違いのない健康法だと思うからだ。太古の世界、ヒトは、水を飲んでいただろう(当たり前だ)。果物や木の実も食べていただろう。たくさん歩いていただろう。だから僕もこれらは実践したいと思う。なるべく水を飲み、サラダや果物をたべ(調味料なしで)、歩く。
人々は、日の出とともに起き、日が沈めば眠り、昼寝をしたければ好きなだけ眠っただろう。お腹がすいたら食べ、食べ物がなければ食べず、大きな獲物をしとめたら、しばらくはぼんやりとして空想にふけっていただろう。そしてそのとき、物語が生まれたのかもしれない。だから、妄想はOK。昼寝もOK。食事を抜くのもOK(3食きちんと決まった時間に食事をとらなきゃいけない、というのは怪しいと思っている)。夜更かしは基本的にNG。
そこには、クーラーもヒーターもシャンプーもなかっただろう。マヨネーズはなかっただろう。車もなかっただろうし、ビール飲みながら野球中継見たりもしていなかっただろう。コーヒーも酒も飲まなかっただろうし、株でひともうけしたりパチスロでおお小遣いをすっちゃったりもしなかっただろう。だからこれらは基本的にはNG(実践できているかはともかく)。
そういう基準に立って考えると、翻訳っていうのは必要なのかどうかわからなくなる。まあ、書き言葉の誕生がすなわち文明だとも言えなくもないだろうから、少なくとも昔の人は翻訳なんてなくても生きていたわけで、そう考えると、翻訳というのはナチュラルな人間にとって本当は必要ないものなのかもしれない、などと寂しい気持ちになったりすることもある。でも、言語と呼べるものがなかった時代から、人間がなんらかのコミュニケーションをしていたであろうことは間違いなく、ヒトとヒトとの間に立って、なんらかの「翻訳」をするような場面はあったであろうと思われる。そう考えると、この仕事はかなり人間存在にとって根源的なものであるとも言えなくもない。そもそも、人と人との間に立つもの、ってまさに「人間」じゃないか。そう、翻訳者は、人間なのです。
そんな暮らしのなかで、ヒト(北京原人)は恋に落ちた。あまりにも切なくて切なくて、独りになりたくて、彼は放浪の旅に出た。周りには誰もいない。夜もひとり。そこで彼は自分を見つめ直した。どうやって生きていけばいいのか、この気持ちに、どう折り合いをつけていけばいいのか。想いわずらう日々がすぎていった。
数日が経ち、心にも落ち着きが感じられてきた頃、彼は激しい空腹に襲われていることに気づいた。食料を探しにいくと、キャベツを見つけることができた。さらに、幸運にも野生の豚をしとめることにも成功した。そこで彼は火をおこし、キャベツと豚肉を炒め、そしてブルドックソース(註:野生のブルドックの干肉と野菜を煮込んで作ったソース)をかけて食べた。美味しかった。涙が出るくらい旨かった。いたく感動した彼は、その料理を「恋放浪」と名づけ、旅から戻ると仲間に伝えた。それ以来、この料理は広く人々に食されるようになったのだという。恋放浪は、やがて中国各地に伝承されるなかで、ホイコーローとその名を変えた。そして、現在の私たち日本人にとっても馴染み深いレシピの一つとなっているのだった。いやあ、歴史って面白いですね~。
恋に破れ放浪の果てに見た夢を味つけに添え今宵のホイコーロー
最近は、もうすべてがなんだかよくわかりません(^^) おやすみなさい~
昨晩、生まれて初めてホイコーローを作って食べてみた。美味しかった。もともとソースはあんまり好きじゃなくて、醤油顔だけに醤油派なのだけど(真面目に、小さい頃に醤油顔と言われたことがあって、自分はソースか醤油かを選ぶとき、醤油にしなければならないという刷り込みがされてしまったようなのだ)、たまに思い出したようにソースを味わいたくなるときがある。で、昨日もちょっと使ってみた。
ちなみに、僕はケチャップよりも断然マヨネーズが好き。小さい頃は、ご飯にマヨネーズかけて食べていた。というより、マヨネーズにご飯をかけて食べていた。私見だけど、この4つの調味料の好みは、ソース&ケチャップ派と、醤油&マヨネーズ連合の2つに大別されるのではないかと思っている。フライにドバドバとソースをかける人、フライドポテトにケチャップをぶちまけて嬉しそうにしている人をみると、カルチャーギャップを感じてしまう。そして、そういう人はやはりソース顔の人が多い気がする(あくまでも私見)。もちろん、ソースもケチャップも美味しいと思う。だけど、まっさきに選択肢として考えることは少ない。だから、何はさておきソース&ケチャップな人を目の当たりにするにつけ、ものすごく異質なものを感じるのだ。おそらく、彼&彼女らの祖先は、南方系だったのではないかと思ってしまう。根拠は何もないけど。
でも、これらはやっぱり化学調味料というか人口の味というか、本来あってもなくてもいいもの、という気はする。やっぱり究極的には味付けは塩だけでもいいのだと思う。さすがに、塩が嫌いな人はいないと思う(塩控えている人はいると思うけど)。だって、野生動物は食べ物に調味料なんてかけてない。ライオンはシマウマを食べるとき、タルタルソースなんて使わない。塩だってかけない。シマウマの肉体のなかに、すでに若干の塩分が含まれているからだ。だから、本当は人間、ほんの少しの塩さえあれば、あとはローフードがあれば何もいらないはずなのだ。
ちなみに、巷ではいろいろな健康法が謳われているけど、僕が基準にしたいと思っているのは、それが文明以前の人類の生活に適ったものであるかどうかということだ。もし昔の人も同じ事をしていたのであれば、おそらくそれは自然の摂理に従った、まず間違いのない健康法だと思うからだ。太古の世界、ヒトは、水を飲んでいただろう(当たり前だ)。果物や木の実も食べていただろう。たくさん歩いていただろう。だから僕もこれらは実践したいと思う。なるべく水を飲み、サラダや果物をたべ(調味料なしで)、歩く。
人々は、日の出とともに起き、日が沈めば眠り、昼寝をしたければ好きなだけ眠っただろう。お腹がすいたら食べ、食べ物がなければ食べず、大きな獲物をしとめたら、しばらくはぼんやりとして空想にふけっていただろう。そしてそのとき、物語が生まれたのかもしれない。だから、妄想はOK。昼寝もOK。食事を抜くのもOK(3食きちんと決まった時間に食事をとらなきゃいけない、というのは怪しいと思っている)。夜更かしは基本的にNG。
そこには、クーラーもヒーターもシャンプーもなかっただろう。マヨネーズはなかっただろう。車もなかっただろうし、ビール飲みながら野球中継見たりもしていなかっただろう。コーヒーも酒も飲まなかっただろうし、株でひともうけしたりパチスロでおお小遣いをすっちゃったりもしなかっただろう。だからこれらは基本的にはNG(実践できているかはともかく)。
そういう基準に立って考えると、翻訳っていうのは必要なのかどうかわからなくなる。まあ、書き言葉の誕生がすなわち文明だとも言えなくもないだろうから、少なくとも昔の人は翻訳なんてなくても生きていたわけで、そう考えると、翻訳というのはナチュラルな人間にとって本当は必要ないものなのかもしれない、などと寂しい気持ちになったりすることもある。でも、言語と呼べるものがなかった時代から、人間がなんらかのコミュニケーションをしていたであろうことは間違いなく、ヒトとヒトとの間に立って、なんらかの「翻訳」をするような場面はあったであろうと思われる。そう考えると、この仕事はかなり人間存在にとって根源的なものであるとも言えなくもない。そもそも、人と人との間に立つもの、ってまさに「人間」じゃないか。そう、翻訳者は、人間なのです。
そんな暮らしのなかで、ヒト(北京原人)は恋に落ちた。あまりにも切なくて切なくて、独りになりたくて、彼は放浪の旅に出た。周りには誰もいない。夜もひとり。そこで彼は自分を見つめ直した。どうやって生きていけばいいのか、この気持ちに、どう折り合いをつけていけばいいのか。想いわずらう日々がすぎていった。
数日が経ち、心にも落ち着きが感じられてきた頃、彼は激しい空腹に襲われていることに気づいた。食料を探しにいくと、キャベツを見つけることができた。さらに、幸運にも野生の豚をしとめることにも成功した。そこで彼は火をおこし、キャベツと豚肉を炒め、そしてブルドックソース(註:野生のブルドックの干肉と野菜を煮込んで作ったソース)をかけて食べた。美味しかった。涙が出るくらい旨かった。いたく感動した彼は、その料理を「恋放浪」と名づけ、旅から戻ると仲間に伝えた。それ以来、この料理は広く人々に食されるようになったのだという。恋放浪は、やがて中国各地に伝承されるなかで、ホイコーローとその名を変えた。そして、現在の私たち日本人にとっても馴染み深いレシピの一つとなっているのだった。いやあ、歴史って面白いですね~。
恋に破れ放浪の果てに見た夢を味つけに添え今宵のホイコーロー
最近は、もうすべてがなんだかよくわかりません(^^) おやすみなさい~
納涼会に出ていた者です。
「そんな暮らしのなかで」からのくだりが秋の夜長にぴったりで、なんだか心打たれてコメントしてしまいました。すてきなホイコーロー物語ですね
はじめまして!先日は楽しかったですね~
恋をして、放浪して、旅先でホイコーローを食べる、人生の味わいはそんなひとコマにあるのかもしれませんね。
僕の場合は、人生が「濃い放浪」の様相を呈してきています(^^)これからもどうぞよろしくお願いします。