一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

800  仇討に拍手喝采年の暮

2012年12月22日 | 

800  仇討に拍手喝采年の暮

(あだうちに はくしゅかっさい としのくれ)

 元禄14年3月14日、江戸城、松乃大廊下にて、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が高家旗本・吉良上野介義央に、刃傷(にんじょう)に及んだ。

 殿中での刃傷に対して、征夷大将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は即日切腹、赤穂浅野家は断絶と決まった。それに対して、吉良義央には何の咎めもなかった。喧嘩両成敗とはならなかったのである。

 元禄15年12月14日、赤穂藩筆頭家老・大石内蔵助義雄は、赤穂浪士(四十七志)と共に、本所松坂の吉良邸を襲い、吉良上野介義央の首を上げたが、四十七志は全員切腹となって決着した。

 この一連の事件を「元禄赤穂事件」と言うそうだが、その後、歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)の演目『仮名手本忠臣蔵』として上演され、今日まで日本人の「仇討」礼賛へと発展してゆく。

 現在、映画、テレビでこの忠臣蔵は大人気であるが、私はその人気の所以がどうも理解できない。何故なら、刃傷に及べば、お家断絶によって親族、家臣が路頭に迷うのは分かっていたはずで、それを無視して行動した浅野内匠頭長矩は、どうしょうもない馬鹿殿だったのである。

 そんな馬鹿殿に忠義を守り、死を覚悟しての仇討に及ぶことは、私には理解できない。更に、そういう映画やドラマが、現代人に人気があることも理解できない。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする