一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

2249   酢の洗礼のたうちあえぎ牡蠣昇天  鯨兒

2021年12月26日 | 投稿

 伊勢エビにも痛みを感じる神経があり、活け作りなどは残忍な行為であり、昇天させてから、調理を行うべき。それに対して、調理組合が反発。そんな報道があった。

 アワビの残酷焼きなどこうした残忍な調理を行い、食し悦に入る人も多い。他方、牛・豚にも感情があり、恐怖の中で屠殺された牛肉・豚肉は食べず、菜食を貫くヴィーガンもいる。しかしながら恐怖とか痛みという尺度でいえば、程度の差はあれ、最近の研究では、草木にも動物と同じような感情らしきものがあるとされている。たとえばお米などの植物が危険を感じると、その草ばかりでなく、周りの草にまで伝令が飛び、食べられないように不味くなるということである。食することに、こうした極端な人間的感情を持ち込むと、仙人のように霞を食べていくしかなくなる。

 動物そして植物は、他の動物を食べたり、土から養分を得たりして、生きていく。万物を原子レベルでみていくと、食するということは、その入れ替えの流れにすぎない。原子でできたプランクトンを食べた魚を人が食べ、消化され人の肉となったり、糞尿となって川に流れ、またプランクトンの餌になっているのにすぎない。こうした巨視的見方からすると、放射能汚染水を海に流し、食物連鎖という万物の流れに放射能を加えることの方が、生きた伊勢エビを食べることより、ずっとショッキングで残忍なはずである。また、シマウマを襲いガツガツ食するライオンを残忍とみる人は多い。しかしながら、ライオンに言わせれば、俺たちは食べるために殺す。でも、人間は食べないのに、戦争で何千万という仲間である人間を殺してきている。俺たちより人間はずっと残忍な生き物だ。ザッツライトである。(鯨児)

白菜と豚肉のミルフィーユ鍋

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2243  どこからか軽き口笛干蒲団  鯨兒

2021年11月27日 | 投稿

「日向に干した蒲団がポカポカに温たまり軽くなり、掌で触れるなどしてそのぬくもりとフカフカ感を楽しんでいると、どこからか風が運んできたのか口笛が聞こえてきた」というたわいもない句。

 TWITTERでの投句から俳句をはじめて一年後、ひょんなことで雲水先生と知り合いになって、この句会に参加させてもらうようになった。それからちょうど一年。単にTWITTERに投稿するだけから、句会で人の句を評したり、評されたりするようになって、作句能力が格段とレベルアップした。これもひとえに雲水先生をはじめ、皆様のおかげと感謝申し上げたい。

 今回も上記の句を通じて、俳句での三密を避けることを学んだ。詩における言葉は、密をむねとする。五七五の語が多数の関係で結ばれていればいるほど良い詩となる。俳句はそれとは逆で、適当な距離が必要で、今回それを茶室のおもてなしを例にとり解説された。

それ以前の課題は、季語はおまけ的にポンとつけることだった。それでこの句は、おまけ的に「干蒲団」をつけることになった。ただ三密を避けるために、残りもそれぞれいい塩梅にポンポンポンということになると、この「どこからか」「軽き口笛」を切り離す必要が出てくる。たしかに、口笛に、「軽き」という形容詞が付されているのだから、「どこからか」は重くなる。いい塩梅の語を見つけるのはなかなか難しい。まあこうした課題に対して、あーでもないこーでもないと取り組むことが、自身の作句能力を高めることになる。だからスポーツの訓練と同じで続けるしかない。そして電車に乗っている時に、頭に電球が灯るように突然閃めけば、至福の瞬間となる。

 また今回は、炎火氏より「細み」なる語が教示された。「蕉風俳諧の根本の理念の一つで、作者の心が対象にかすかに深く入り込んで捉える美、およびそれが繊細微妙に表現される句境」とのことである。研究の対象にしてみたい。(鯨兒)

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2223  晩夏光虔十林に誘われて 雲水

2021年08月14日 | 投稿

 童話の世界では、森林は神秘に満ちたカオスの異世界として位置づけられている。妖精やら魔女などが登場し、不思議なことが次から次へと展開される。そして人類も、かつてはこの森林の住人であった。しかし脳の進化とともに森を出て、脳が作り出す合理を御旗に、本能そして神秘とか非合理といったものを排除し、コスモスとしての町をつくり上げることになる。こうして町に住む人間にとって、冒頭で述べたように、森は異世界となる。

 この「晩夏光」という季語は、晩夏(夏の終わり)の力を失いつつある光のことである。ただ晩という言葉が、光にもかかって光の暗さ・翳りも意味している。むっとした森の光で、映画が好きな私は、黒澤明監督の「羅生門」のきらめく妖しい光をイメージした。そうした異世界たる森の光に、町の住人が誘われることになる。ただ「誘われて」という言い回しにすることで、二つの解釈が生じる。一つはその異世界たる森を前に畏怖して「誘われて」も、入るべきかどうかためらうというもの。もう一つは、「誘われて」森に入り込み、その後の体験は読み手の想像にゆだねるというものである。

 この句に関して、浅学菲才の私の解釈はここまでで、宮沢賢治の深い世界の入り口までもたどり着けなかった。残念なことである。

 最後に。前者の解釈の森への畏怖とか感謝の念は、近ごろ元の住人の人類にはなくなってしまった。毎年日本の総面積の1.5倍の森林伐採が地球上で行われ、温暖化の一因にもなっている。森林は、地球の冷却そして二酸化炭素の吸収を担ってきた。それを伐採するのは、自分の首を絞めることなのだが、食糧難による農地拡張ということで伐採は止まない。こうした愚行に、自然の方から多くの警告が発せられている。今回のコロナウイルスもその一つである。森林はこうしたウイルスの宝庫であり、伐採すればまた新たなウイルスが誕生ということになる。また、伊豆山の土砂災害もそうであろう。森や山は、いつの間にか行き場のなくなった産廃・残土の捨て場となってしまった。森や山が「もうやってられない」と突き返したと思えなくもない。私自身も昔のテニス仲間を失うという悲しい災害であったが、こうした森からの光に「誘われて」、現在の森の惨状を知ることも必要ではないか。(鯨児)

(鯨児様 投稿有難うございます。私の句を採り上げていただき恐縮しています)

クサギ(臭木) 臭いのは葉で、花は良い香りがします。

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2217  田鼠も鶉わたしは何に   鯨兒

2021年07月07日 | 投稿

  「角川俳句大歳時記」。この索引欄には、さまざまな季語が並んでいる。そしてそうしたものの中に、こんなもの使えるのかと思うような季語もある。たとえば、「田鼠化して鶉と為る」。これは「でんそかしてうずらとなる」と読み、「モグラがこの時期には姿をひそめ、ウズラに姿を変えて活動する時節」をあらわす春の季語である。なんと季語だけで十二字。こんな長い季語で句として成立するのかと、例句の欄を見てみる。すると

「田鼠化して鶉と為る舌にピアス」(中田千津子)」という超絶的なる句がちゃんとある。ただこのように丸ごと使うことはまれで、

田に老いて鶉顔なる鼠かな(佐々木北涯)」のようにデフォルメされ使用される場合が多い。そしていつの日にか、この季語で一句ひねってみようと思うようになった。ちょうど映画連句で、春の喪のテーマがまわってきたので使うことにした。

田鼠も鶉わたしは何に」という七七の句である。沢田研二の映画『魔界転生』(1981年)を下地とした、転生の句である。

 転生は、宗教じみていて仰々しい。しかしながら、火葬場の煙突から大気中にのぼった私の粒子が、海に落ち魚に喰われれば魚に。そしてその魚を人が食べれば、また人間に転生するだけの話で、至極当たり前の話である。まあ死後の自分がどうなるかなど、どうでもいい話なのだが、「わたしは何に」なので、転生先を少し考えてみた。今の人間も悪くはないのだが、人間は何かと小忙しいので、これから成長する樹木の近くの土を候補に挙げてみた。樹木の養分となり、日の光を浴び、鳥のさえずりを聞き成長する。こんな転生先もなかなかいいのではないか。(鯨兒記)

ハンゲショウ(半夏生)、別名カタシログサ(片白草)

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2203  詩における「声」   鯨児

2021年05月12日 | 投稿

「自然」とは一つの神殿で 

立ち並ぶ柱も生きており

聞き取り難い言葉をときより洩らす

 

 これは、フランスの詩人ボードレールの「万物照応」という有名な詩の冒頭の部分です。なぜ有名かというと、ボードレールをはじめとする象徴派と呼ばれる詩人たちの詩作の秘密が述べられているからです。つまり詩作を語る詩というジャンルの詩で、詩の世界ではしばしば行われていることです。しかしながら俳句の場合、五七五という字数の制限もあって、詩作について語る俳句は極めて少ないといえます。こうした俳句の創作について語る俳句を作ること、実は前からやってみたくて、今回挑戦してみることにしました。

 

声ひびき言葉なき淵に沈む海女 鯨児

 

 この「声ひびき」は、先ほどのボードレールの「聞き取りにくい言葉」にあたります。それは、詩の始まりある単なる震動・リズムといった類いのもの、あるいはそうしたものを伴った単なる言葉の端切れということもあります。そしてこうしたものは、多くの場合「声」という言葉で呼ばれています。はじめにあるこの「声」を、詩人は聴くというより体感し、最終的に詩としてつくり上げることになります。私の専門としてきた詩学は、こうした「声」とは何か、そしてそこから詩へと向かう行程を追うもので、私自身詩あるいは俳句に見え隠れする「声」に人一倍関心があります。

 

ぶつぶつと呟き聴こゆ紅葉川  薪

 

 十一月の句会のこの句も、そうした「声」を扱ったもので以下の雲水師の句報での評も、「声」を的確にとらえています。

 《川面に映った紅葉(こうよう)した紅葉(もみじ)。作者の耳には、何かぶつぶつと呟きが聞こえるという。

呟いている者(物)は、文法的には紅葉川の川音かもしれない。しかし、そうとは限らないのだ。

紅葉(もみじ)かもしれないし、森のざわめきかもしれない。森の精霊や神様かもしれない。

近くにいる知り合い(人間)かもしれないし、他人かもしれない。

勿論、作者の意識下の声かもしれないのだ。

主人公が何か(誰か)解らないし、「ぶつぶつ」の中身も分らない。

兎に角どうにでも考えられるし、この句は、実に曖昧なのだ。

 そこで私は考える。

作者は、紅葉(もみじ)や川や森、作者の過去や現在や未来、そして己の無意識界に耳を傾け声を聴こうとしているのではないのか。

そんな鎮静した作者の心理状態を想像するのは、考え過ぎだろうか。(雲水)》

 

 私の場合は、この「紅葉川」を読んで、井筒俊彦がその著『意味の深みへ』で述べていた『荘子』の「天籟」の比喩を思い出しました。井筒俊彦というのは、よくNHKにもでている若松英輔のお師匠さんにあたる人です。

 

《無限に広がる宇宙空間、虚空、を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡る。天籟。この天の風が、しかし、ひとたび地上の深い森に吹きつけると、木々はたちまちざわめき立ち、いたるところに「声」が起こる。

 この太古の森のなかには、幹の太さ百抱えもある大木があり、その幹や枝には形を異にする無数の穴があって、愛ではす。岩を噛む激流の音、浅瀬のせせらぎ、空にとどろく雷鳴、飛ぶ矢の音、泣きわめく声、怒りの声、悲しみの声、喜びの声。穴の大きさと形によって、発する音はさまざまだが、それらすべての音が、みな、それ自体では全く音のない天の風によって喚び起こされたものである、という。》

 

 そしてボードレールをはじめ、多くの詩人そして俳人がこうしたさまざまな「声」を体感し、作品を作ることになります。「紅葉川」の薪さんもそうなのでしょう。多くの作品は、こうした森とか川とかいわゆる地上のものに題材を求めています。ですから今回はすこし趣向を変え、水中に題材を求めることにしました。海の中は、潜ったことがあるとわかると思いますが、神秘に満ちた沈黙の世界です。その世界に、何かしらの「声」が響き、それに魅せられ、潜るという自発的な行為ではなく、その響きに身を任せ沈み行くしかない詩人の状態を、海女を用いながら句にして「作句の句」に挑戦してみました。  

 そして句の作成の段階で、さまざまな語の取捨選択が行われ、最終的に決定されるのですが、この句の「淵」という語、なかなか素敵です。辞書を引くと意味では「①水の深くたまった場所②深いさま③奥深く静まりかえる④ものが多く集まるところ」、そして文字の成り立ちでは「淵」の右側はまわりを囲み、ものを閉じ込めていることを示しているとのことです。深いところで、何かが多く集まり蠢きながらも閉じ込めることで沈黙を保っている、そして何かの拍子にその囲いから洩れ出でてしまう聴き難き「声」、なにやらボードレールの「立ち並ぶ柱の神殿」ぽくて、とても気に入りました。俳句は、こうした素敵な語と出遭いとあらためて感じました。

ヒメジョオン(姫女苑)

 

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2202  髭剃りの鏡横切る初燕  豊春

2021年05月10日 | 投稿

 初燕は三月頃南から渡ってくる。歳時記には「今年初めて見る燕のこと」とあるが、私の感じではもう少し後の季節感である。今年、まだ私は見ていない。青葉の美しい頃、颯爽と飛ぶ燕を見ると元気を貰える。今日一日、楽しくすごそうと思う。

 この句、作者は毎朝きちんと髭をあたる紳士と思われる、明るい窓を背に鏡に向かって、真剣に髭を剃る。女が化粧をする時と同じだ。その鏡に一瞬、黒い直線が横切った。「初燕」だ。もうそんな季節なのだ、と思う。こんな句の説明など必要ない、パッチリと写真で切り取ったように視覚的でわかりやすい句だ。見事だと思ったのは、剃刀と燕に共通する鋭さと、朝の空気の爽やかな冷たさが共鳴しあっているところだ。(薪)

ヤマツツジ((山躑躅)

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2196  退化せし尾を撫でている春嵐  雲水

2021年04月18日 | 投稿

 人にはいろいろな習性があります。そして句会での選句において、習性の影響は大きいと思います。たとえば「迷いなく花蹴散らして犬走る 洋子」という句を選んだ理由として、「俳句に犬が出てくると間違いなく選んでしまう」という発言が今回の句会でもありました。私の場合も同じで、イミフ(意味不明)な句があると、わからないままついつい選んでしまう習性があります。今回のイミフは、この「退化せし…」でした。

 自然現象に、人はいろいろな想像上の物をつくってきました。たとえば雷には、雷神。風には風神。地震には巨大ナマズです。この句の「春嵐」について、作者は、何やらかつて尾をもっていたゴジラのような怪物を考えたのだと思います。たしかに南の海から忽然とあらわれ、上陸し多くの被害をもたらす春嵐、まさに怪獣ゴジラかもしれません。

 今南の海から来襲するゴジラといいましたが、最近のゴジラは南の海から来ることが少なくなってきました。つまりハリウッドのリメイク版のゴジラが撮られるようになると、理由はわかりませんが前のようにゴジラは海を渡ってくるということが少なくなります。そのことにより当然のことながら尾は退化し、細く短くなってきています。逆に日本版のゴジラは、尾を揺らし海を泳ぎ渡る必要があるため、退化することはなく、太く長いまま尾は残ることになります。そして日本のゴジラは、陸上ではその尾が邪魔になって、時速18キロしか出ません。それに対して最近のハリウッド版のゴジラは、なんと時速480キロ!です。そして海でのエネルギーの消費が少なく、速度も相まって広範囲にわたる破壊行為が可能となります。

 こうしたスピードアップ&省エネは、春嵐についてもいえることです。地球温暖化の影響で、日本近海の海水の温度が高くなり、以前に比べて近場で発生し、短期間で急速に成長し、ゴジラと同様にエネルギーを温存したまま上陸し多大な被害をもたらすことなります。(鯨児)

オオアラセイトウ(大紫羅欄花)別名 諸葛菜、紫花菜、花大根 

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2192  腰痛の富士浮びおり霾ぐもり  薪

2021年03月11日 | 投稿

(ようつうの ふじうかびおり よなぐもり)

 俳句には、句を作った人の連想を追っていくという楽しみがある。たとえば今回のお題「春一番」の句に、「髪揺らす」があれば、それは「春一番」から「揺れる髪」を連想したということがわかる。こうした連想にこそ、それぞれの人の感性なるものが垣間見えて興味深い。個人差はあるとはいえ、その連想は「髪揺らす」のように共有されていて、お互い理解しあえる。しかし時々、その理解の許容範囲を超える連想もある。今回は、この「腰痛の富士」がそうであった。腰痛で苦しむ富士山!???であった。しかしこうした句は、解釈するために、逆に無茶苦茶な連想が必要となり、自らの連想能力にとってよい刺激となり、その意味でとても貴重である。前回の「目借時蒟蒻踊る鉄鍋で(歩智)」もそうだった。

 この句の季語「霾ぐもり」は、中国大陸からの黄砂などの影響で曇った状態。たぶん、ここからコロナを連想したと思われる。それで外出ができず巣ごもりが原因で、富士「富んだ士(人)」つまり富裕層が、太ってしまって腰痛になり、富士山のようにドテっと動けない状態になっている。しかしながら腰痛の富裕層は、多くの人が沈む中、動けなくても浮かんでいてなにも問題ない。実際富裕層は、コロナ期でも焼け太りで、逆に資産を増やし続けているという話である。一見イミフ(意味不明)ながら、世相をあてこすった素晴らしい作品である(鯨児)

ヤシャブシ(夜叉五倍子)

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1868   日本語の「レアアース」は俳句に埋まっているみたい  蛙声爺

2017年10月10日 | 投稿

秋は果物、読書、もの思い、恋、もしかして少しでも齧(かじ)った人なら俳句?今朝そんな感じで知り合いの俳人のブログを訪れました。

『白と黄の塩辛とんぼ臀呫飛ぶ』 (一韶)

 そこで最初に目に入ったのが「臀呫」という漢字でした。もちろんそのままでは爺も何と読むのか分かりませんでしたが、句の下に解説文があり、「となめ」とあって救われた次第です。トンボのオスとメスが交尾して輪を作り飛んでいる様子をいうのだとか。たしかに子どもの頃山野で何度も目にした光景です。「臀」がお尻なので何となく納得です。この「呫」は「なめる」では出てこない漢字で「ちょう」だと環境依存であらわれます。ちなみに漢和辞典にはちゃんと載っていました。

 それはさておき、この一句だけでかなりの時間、「あそべ」ました(^^♪

 で、あらためて思ったのです。俳句の世界には、美しい日本語、不思議な漢字、そしてクイズ並みの読み方など、言ってみれば「レアアース」的な言葉が埋まっていると。俳諧は基本的に特定の結社の中で育まれ、その中で競い合い、それぞれが味わう形になっているような気がします。そう理解すると、どんな当て字にも難読漢字にもフリガナが付かない不思議さにも納得がいきます。

 じつは爺も冒頭の彼の結社の会合に参加したことがあります。当時は4巻にも及ぶ「歳時記」まで買ったものです。しかしその奥深さに感動しておののき、短時日で小説だけのいまの世界に戻りました。

 俳句は、『言葉のデザイン』(彼)、そして「17文字の奇跡」(爺)です。 

 ただ、鑑賞の仕方は人それぞれでいいと思います。楽しみ方といってもいいですよね。爺はどうしても文字自体に興味が湧いてしまいます。句評はとてものこと無理だからです。

 次の一句でも遊ばせてもらいました。ただしこれは秋の花ではありません。

 『梔子の白を盗みし女かな』 (一韶)

 どんな女なのでしょう。解説によれば、作者が近くに居たのに、バイクで走ってきて断りもなしに手折って去ったという女です。

 わたしは「解説」を無視して「女」を想像したいと思いました。実際が何か寂しい、トゲトゲしい行為だからです。爺が好きな言葉があります。『花泥棒が許されるのは若くてきれいな女性だけである』、もちろん許すのは花の主です。裁判所的に面倒な言い方をしてみれば、「窃盗罪の構成要件に該当はするが、可罰的違法性がない」となりましょうか。

 できれば想像どおりの女性で、若くして病死した妹さんが大好きだった花だった、とかね。妄想です。

 そうそう、ついでに見つけた言葉がきれいだったのでご紹介します。花つながりです。美人のまぶたを「花瞼」(かけん)というそうな。それこそ目から鱗(うろこ)でした。

 じつは爺、この「梔子」の読み「くちなし」を思い出すのに「なんだっけ?」と20秒以上かかってしまいました。脳に記銘する力だけではなく、思い出す力も弱っているのでした。かなりショックでした。 

 俳句に出てくる当て字のような漢字でも、たびたび出てくるとお馴染みさんになります。「蜩」(ひぐらし)、「百舌」(もず)、「土竜」(もぐら)、「土筆」(つくし)などです。そう考えると結社の中では、季語で毎年出てくるこれらの漢字について仮名を振る必要がないというのもうなずけます。「辛夷」(こぶし)、「柳葉魚」(ししゃも)なんかも、結社の人には軽いのではないでしょうか。

 秋ですから、俳句を自分で創ったり、人様の作品に触れたりしてみませんか。

ブログ「蛙声爺の言葉の楽園」より

 

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