◎天の色やがて地の色柿落葉 一慶
我が家には、4年前にホームセンターで苗木を買って庭に植えた柿の木が一本ある。しかし、未だに花も咲かないし実も生らない。しかし、春の若緑、夏の濃緑、秋の紅・・・はなかなかのものだ。特に、秋の鮮烈な赤と緑のコラボの柿の葉は、見事としか言いようがない。
この句の、天の色は緑だろう、落葉は冬の季語で、地の色=朽葉の色(色を失った茶色)つまり緑は「生の色」やがて茶色は「死の色」しかし、私は、朽ちる前の鮮やかな柿の葉の赤が大好きだ。
◎春の雷音に濡るるといふことも 一慶
ここで問題になるのは、「濡れる」とは何か、ということ。当然、これは雨に濡れることだろう。しかし、海やプールでの水泳や風呂やシャワーのことでもなかろう。今私たちは、日常生活で、服を着たままずぶ濡れになる、ということがめったになくなってしまった。
さて、作者はこの句の「音に濡れる」にしてやったりと思っているに違いない。確かに、私がこの句を採ったのも「音に濡れる」があったからだ。このタイプは、作者の俳句にたびたび登場することになる。但し、ここで疑問に思うのは、季語「春の雷」。
◎はるかなる闇くぐりぬけ滴りぬ 一慶
静岡県駿東郡清水町に「柿田川湧水」がある。富士山周辺に降った雪や雨が地下に潜り、何キロも離れた清水町に、突然こんこんと湧き出て大きな川になるのだ。私たち熱海市民は、その柿田川湧水を飲料水として使っている。それは、間違いなく神の恵みである。この句の「はるかなる闇」には、作者の神や自然への畏敬と感謝が表現されているのではないのか。
◎虹消えて川音川に戻りたる 一慶
三猿「見て見ざる、言って言わざる、聞いて聞かざる」というのがあるけれど、集中したり、夢中になったりすると、周りが消えてしまうことがある。
この句の意味は、素晴らしい虹を見ていたとき、聞こえていた川音が聞こえなくなった。そして、虹が消えたとき、川音が作者の耳に戻った、ということだろう。
「虹消えて川音吾に戻りたる」の「吾」を、「川」に替えてみると、俳句が面白くなる。
◎終戦日ラヂオは隅に追ひやられ 一慶
私は、昭和25年生まれだから「戦争を知らない子供たち」の一員である。そして、静岡の田舎育ちで決して豊かではなかったが、戦後の食糧不足や物不足をほとんど知らない。この句の、終戦とラヂオと言えば、玉音放送のことだろう。私は、敗戦日だ、と思っている。
さて、テレビが幅を利かす現代。終戦の時に幅を利かせていたラヂオは、家庭の隅に追いやられているらしい。作者が、TBSの元アナウンサーで、又ラヂオのパーソナリティをしておられたことを思うと、この句は、身に染みているに違いない。
私は、NHKのラジオ深夜便を、ほぼ毎日聞きながら寝ている。残念ながら、民放はほとんど聞いたことがない。コマーシャルが嫌なのだ。
◎庭石の海こひしがる残暑かな 一慶
彼岸も近づき、ようやく酷暑が収まってきた。とは言っても、最高温度が30度を下回り、25度ほどになった程度である。
さて、現在の日本列島のほとんどは、元海底だった。庭に据えられた石が太陽に熱せられ、50度以上にでもなれば暑がって、あの冷たい海底を懐かしく恋しがっている、と想像するのは理にかなっている。
その根拠としては、大陸移動説(プレートテクトニクス理論)がある。地球は、
40億年前に誕生して以来、表面の地殻であるプレートが年間数センチ移動し続けているからだ。
大陸が移動しているという根拠は、南北アメリカ大陸の東岸とヨーロッパ・アフリカ大陸の西岸を合わせると、ぴったり合うことから発見したのだという。
◎秋風の迷いたき露地ありにけり
「ろぢ」には、路地と露地がある。この句は露地で、茶室に付随する茶庭を指す。この句の面白いところは、「迷いたき」は秋風か作者か又は両方か、読者を迷わせているところにある。
昔、養老孟司氏の「バカの壁」が400万部を越えるベストセラーになったという。私も買ってしまった一人だが、今思うと、買った動機は「バカの壁」の「の」に惹かれたのではないのか。つまり、「バカが壁そのものである」のか、又は「バカには壁が立ちはだかる」なのか、そのどちらかは、読んでみないと分からないから、つい買ってしまったのだ。この句の「の」と似ている。
◎追憶は絹の手触り十三夜 一慶
旧暦8月15日、十五夜の、ひと月遅れの十三夜、今年は10月11日である。作者の句に、色っぽさを探せば、第一にこの句になるだろう。大気はひやひやとして、虫の音はかすかになり、月は煌々と輝いている。作者の指先は、女の絹に触れている。「追憶」が、ちょっと淋しくはあるが、とても色っぽくて上品な句だ。
◎返り花誰を見送るためならむ 一慶
春夏の花が何故秋冬に咲くのだろう。これを科学的、生物学的に論じても始まらない。文学的俳句的に言えば、人間的ということになる。
この句の場合、「誰に」と疑問文にして問うているけれども、作者ははっきりと誰であるかは分かっているはずだ。作者にしか分かりえない「ある人物」なのだ。ぼかすことも句作の妙味。何故なら、読者の想像を掻き立てるからだ。
◎売るほどの福見あたらず熊手売 一慶
「買うほどの福」とするのが常識的。「俳句をひねる」というが、買うを売るに替えただけで読者の関心を惹きつける、作者の作句法。
◎ひなまつり次女も長女も寄りつかず 一慶
この句の面白さは、長女ではなく次女が先だということ。作者の次女との関係が想像されるのだ。次女は、長女より優しい性格だ。作者の家が次女の住む家と近い。次女とは気が合う、等々。これ以上の想像は、不要かもしれない
◎この先の狂気は知らず初桜 一慶
東京の開花宣言は、指定木が数輪咲いた時だという。これが、初桜だ。さて、それから満開を経て散ってしまうまでの2週間ほどを、作者は「狂気」と言った。この狂気は、桜のことでもあるだろうが、「人間」のことも言っているのではないのか。
例えば、上野の花見の新入社員の場所取りのブルーシート敷き、ロープまで張ってある。そして、どんちゃん騒ぎ。終わればゴミが散乱し、人間界は正に狂気の沙汰である。
◎昆虫の貌に鼻なき秋暑かな 一慶
例えば、ゾウムシのような長く伸びた鼻のような部分は、鼻ではなく「口吻」と呼ばれている。哺乳類のような空気を取り入れる鼻は、昆虫にはない。昆虫には、気門という空気を取り入れる穴が体の横にあるそうだ。
そうか、言われて気が付くバカがいる。私もその一人であった。
◎この世だけつながる電話いわし雲 一慶
全くこの句の通りである、としか言いようがない。しかし、それで終わりではない。「この世だけ」の「だけ」があるから、作者はあの世のことを言いたいのだ。あの世の誰かと交信したい作者がここにいる。透き通った秋空に浮かぶ鰯雲を眺めている作者がここにいる。お相手ははたして誰だろうか。想像は、読者の勝手。
◎無頼派と呼んでもみたき熟柿かな 一慶
無頼派を勝手に想像すると、太宰の心中、檀一雄の放蕩、三島の割腹自殺、坂口安吾のようなやや上等な「堕落論」もあるが・・・戦争を生き残った男たちの、闇屋、売春、ヒロポン、カストリなどが思い浮かぶ。
さて、作者は、あのぐじゅぐじゅに熟れた柿を、なんと無頼派と呼びたいらしい。作者にとって、無頼派とはどんなものか、聞いてみたいものだ。それにしても、熟柿は実に美味い。
◎村ぢゃうの顔知ってゐる桜かな 一慶
この句の桜は、100年以上の大木で、立派な花を咲かせるのであろう。だから、全ての村民が毎年必ず見に来るのだ。村民と言っても、せいぜい100人くらいを想像すればよい。村民の全員の顔を知っているのは、桜だけではない。当然作者も知っているのだ。
ところで今、地方が荒廃し、過疎化が進んでいる。東京の一極集中に歯止めがかからない。そんな時に、オリンピックまで東京でする神経が、私には理解できない。
◎走り梅雨星野高士はうつむかず
私は残念ながら、星野高士氏を存じ上げない。ところがこの句は、高士氏の性格やものの見方、考え方などをズバリ言い当てているではないか。何故、走り梅雨を採り合わせたのかは不明ではあるが。多少の困難なことが生じても突破する高士氏なのだろう。
【その他の秀句】
蛍火や主役は闇に他ならず
噴水の退屈きのふけふあした
色鳥とまとめて呼ばれたくはなし
後悔は十八画やおでん酒
蓮の花散りておのれを解体す
行秋や半眼にして見ゆるもの
冬の蝶待つも待たるることもなく