今年の二月(新暦では睦月)は、寒波が強く、未だに日本海地方に大雪が降り続き、太平洋側は晴天が続いている。そのせいか、今月の句会には「空の青」を詠った句が多かった。
さてこの句には、青い空を渡っているのは何か、いわゆる主語がない。省略されている主語が何かと考えてみると例えば、空を行くジェット機や動物では鴨、鶴などの「鳥類」、「白い雲」などが考えられる。又、非現実、抽象的なものともなれば、例えば作者の様々な過去の記憶が走馬灯のように思い出されているのかもしれない。この句は、それぞれの読者の経験や記憶による様々な解釈が成立するのである。
「如月が渡っている」が、一番素直な解釈かもしれないが、「如月や」と「や」で切っているから、如月ではない「別物」と考えるのが良いだろう。
又、「青き空渡る」に、本来あるべき助詞を入れてみると、「青きが空渡る」「青き空が渡る」「青きを空渡る」「青き空を渡る」など別の解釈も成り立ってくる。
冬山は寒く風が強く、雪が進路を妨害し、滑落の危険があり、多くの登山者が死んでいる。未知の世界に進む冒険家、好奇心の強い向こう見ずのおバカさんだけが雪山に迎えられる。
この句の雪嶺は、山頂というよりは、山頂と山頂を繋ぐ稜線だろう。稜線に向かう登山道をラッセルして歩いているのだ。太陽は天頂近くにあり丁度作者に反射光が当たっていて眩しく感じられるのだろう。登山道の両脇は自然林か熊笹に覆われているかもしれない。
この句の光の道は、天国に向かう霊界の道のようでもあり、神々しく感じられたのである。こういう光景にであうから冬山登山は止められなくなるのだ。上村直巳は、アラスカ、マッキンリーで帰らぬ人になったが、羨ましいくらい幸運な人生だった、と私は思う。
蜘蛛は糸を出して網を張ると思われているが、実際は糸を張る蜘蛛と張らない蜘蛛はほぼ同数だそうである。この句の蜘蛛は、間違いなくアシダカグモ(足高蜘蛛)、又はコアシダカグモである。イエグモ、ヌスットコブ(盗人蜘蛛)、軍曹などとも呼ばれる。亜熱帯起源のこの蜘蛛は、日中は物陰などに潜み、夜になると隠れた場所から這い出る。そして天井・障子・壁などで脚を広げて静止し、接近してきた昆虫(ゴキブリ・ハエ・ガ・カ・ハサミムシなど)を捕食する。人間への攻撃性はなく、網で家屋を汚すなどの実害もないので、むしろ保護すべき小動物である。
私も、母から「この蜘蛛は害虫を食べてくれるから、殺してはいけない」と言われていた。実際、薪の隙間など狭いところにこの蜘蛛を見つけると、まん丸に固まって動かない。いわゆる擬死(死んだふり)である。
さて、作者に「蜘蛛俳句の豊狂」、という称号を贈りたいと思うが、迷惑だろうか。
ハクサイ(白菜)
(ゆきまいて ちまたのあかり こおどりす)
「巷(ちまた)」とは、大ぜいの人々が生活している町や世の中、にぎやかな通りや街角をもいう。この句の場合、町である巷が、街灯によって明かるく照らし出されているのだ。
通りは、ビルによって風が乱され、降っている雪が乱舞している。その雪は、街灯によって明かるく照らし出されている、というのだ。
つまり、雪が風によって乱舞しているだけなのだが、まず「雪が舞っている」と言い、次に「明かりが小躍りしている」と雪の様を更に強調して言い替えているところが妙。
そして実際、小躍りしているのは、雪や明かりだけではなく、作者のこころも小躍りしているに違いない。現実の作者は、又、少女時代のことを回想しているのかもしれない。
冬眠するのは、熊や蛇、蛙、亀などの哺乳類や爬虫類などの大型動物ばかりではない。小さな様々な昆虫類も地下や枯れ草など様々な場所で冬眠している。
ストーブで燃やすため、薪小屋から薪を運ぶと、よくいるのがカメムシ(亀虫)である。室内に入れると暖かいので、のそのそ這い出して来る。気付かずにカメムシに触れると、強烈な臭いを発する。どうにも好きになれない悪臭である。従って、一度に大量の薪を室内に入れない、少しづつ運ぶのが鉄則である。
この句の救急車は、ある街を走る特定の救急車ではなく、年の瀬という地球上の時空間を走る全世界の全救急車を指しているのである。
世界では、ロシアがウクライナを、次いでガザでもイスラエルが殺戮を行っている。一般国民がどんなに強く平和を願っていても、政治家になった権力者たちは、何故か戦争をしたがる。
ロシアやイスラエルにしても、その国の政治家を選んだのはその国の国民なのだから、日本を含むどの国民も殺戮が好きだ、ということになる。人間が平然と人間を殺し、一方で怪我人を助けるべく救急車が駆けつける。なんという理不尽な現実だろうか。
私達新人類ホモサピエンスが生まれておよそ三十万年、常に戦争と略奪の歴史だった。これからもアメリカを中心とした愚かな権力闘争が続くのだろう。新型コロナやGAFAなどの経済格差によって、既に「新種の第三次世界大戦」が始まっている、とも言われている。一部の超金持ちによる貧乏人の家畜化・奴隷化である。これは誰も気付かないようにひそかに行われている。
いずれにしても明日は我が身、自然災害と同様、再び日本が戦争に巻き込まれるかもしれないのだ。
原木椎茸は、雨が降ると巨大化します
直径10cm以上になったらバター焼きが超美味
(もうろうの いぬだきよせし かんやかな)
先月、我が家の雑種犬デンが、十四才で亡くなりました。半年ぐらい前から、次第に老衰の症状が出てきました。自力で車に乗れない。何でもないところで躓く、転ぶ。やたらと水を飲む。呼んだら反対に振り返る。目が見えなくなり真っ直ぐ歩けない、壁にぶつかる。次第に食べなくなる、水を飲まなくなる。痩せてくる。寝たきりになる。明日の我が身を見ているようでした。
冬の雨死にゆく犬の足擦る
木枯や空見上げては墓を掘る
犬の墓穴深々と落葉敷く
亡骸に土を掛けゆく寒さかな
君の居るごとくストーブ焚きにけり
お墓には、文旦の苗を植えました。周りには、白椿、満作、紅葉、金柑、紫陽花があります。一年中楽しんでね!
「冬籠り」とは、寒さの厳しい冬を、土の中などに潜って、じっとしたまま過ごすこという。 又、寝て過ごすことを「冬眠」というが、これも冬籠りである。人間も冬は家に籠りがちになるから、人間にも適用する。
さて、「戻らざる遠くの人」とは、誰であろうか。今では会うこともなくなった遠くに住む、懐かしい身内や友人のことかもしれない。又、座敷や仏壇に飾っている写真の、今は亡き人々、父や母のことかもしれない。いずれにしても、家に籠って、過去現在未来の様々なことに思いを馳せているのであろう。
フキノトウ(蕗の薹)
人は悲(哀)しくて泣く、怒って泣く、悔しくて泣く、淋(寂)しくて泣く、そして嬉しくて泣く、何かに感動して泣く。この句の場合、どれだろうか。又、月を見ているのだから屋外だろうか室内だろうか。はっきりしていないから、それは、読者に委ねられている。・・・などと考えていたら、以下の作者の自句自解が送られてきた。
『月を表す言葉には、宵闇、月影、薄月、良夜、偃月、臘月、月華、月桂等々多くの呼び名がある。二十四節気の大寒を迎えての冬の月の高度は高く、寒さも一入厳しく湿度が低いために空気の透明度が高く、月は冴え冴えと見え、真夜中には真上近くになる。
冬の月の光は、物悲しく侘しい気持ちにさせる。寂寥感、涙する気持ちが湧く。この気持ちは、誰もがもつのだろうか?感情はコントロールできるのか。感情にとらわれないことの一つに無心になりたいと思うことだと・・・ソファーで楽曲を聴きながらボルドーの赤ワインで、平穏な一日に感謝』(黒薔薇、自句自解)
スイセン(水仙)
「サザンカ」は、「山茶花」と書くが、音読みの「さんさか」が「さんざか」となり、訛って「さざんか」となったそうである。チャノキ(茶の木)と同じツバキ科ツバキ属で、童謡「たきび」にあるように、「山茶花」は寒さに強いイメージがあるが、元種は四国九州が北限で、寒さに強いのは改良された園芸品種なのだそうである。
確かに山茶花は、生け垣によく使われる。この句、猫が山茶花の垣根の穴から、ふと顔を出した瞬間をとらえた。跳び出さず、警戒して周りを窺っている様子が、とてもユーモラスである。
一口に古都と言っても色々ある。日本では奈良、京都。しかし、世界に目を広げると、最も古い古都は、例えば、四大文明のエジプトのメンフィス・ヘリオポリスなど。メソポタミアのバビロン。インダスのモヘンジョダロ。中国の黄河西安近郊の仰韶。インカのクスコやマチュ・ピチュ。マヤのマヤパンやチチェン・イツァ。
ギリシャのアテネやイタリアのローマ、スペインのトレド、フランスのナント、イギリスのチェスター、スコットランドのエディンバラ等々他にも沢山あるだろう。
さて、本来のツイードとは、スコットランド、ツイード川流域で作られた毛織物をいうらしい。現在では、機械織もあるし、染色も様々。従って作者が、スコットランドのエディンバラやグラスゴー辺りを旅した時の句と想像するのも楽しいではないか。
しかしながら個人的には、全くツィードとは縁なく暮らしてきた。残念至極である。
この句は、白菜を裂く時に発する音を擬音語「メリメリ」と表現することによって、説得に成功している。作者のもう一句
ザリザリと我先潰す霜柱 さくら
人が靴で、霜柱が踏み潰される時に出る音を、擬音語「ザリザり」と表現して成功している。経験者なら誰でも分かる適切な表現が高得点の理由だ。
➀人や物の動き、➁音や声、③人の感覚や気持ちを表現する言葉を、擬態語、擬音語、擬声語などという。
➀ぐずぐずしている、ころころ転がる、➁ざあざあ降る、げらげら笑う、③いらいらしている、ぼんやりしている・・・などである。フランス語では、オノマトペともいう。
「ホーホケキョ」「ワンワン」なども一種の擬音語で、日本に育つとそう聞こえてしまうから実に不思議である。
ハコベ(繁縷)
(かざはなに とどかざれども てをかざす)
俳句や短歌では、作られた場所、時間、事情などを説明する前書きが付けられることがある。これを詞書(ことばがき)という。この句には、「吾子(あこ)逝けり」という詞書がある。
「吾が子が亡くなって詠んだ」ということが解れば、「届かざれども」と「手をかざす」が、作者の大きな悲しみを表現していることが理解できる。詞書がなければ、なかなか理解は難しい。
黄水仙
我が家のデンは、11才の老犬である。朝晩2回の食事は、ずーっとドライのドッグフード2カップだったが、やや太ってきたので2年前頃から1カップに減らした。すると、やや痩せて来たので、1.5カップに増やした。
いずれにしても、いつも空腹で餌を欲しがるので、「胃袋が歩いているようだ」などと言われたこともある。空腹を紛らわすためだろうか、最近特にやたらと水を飲むようになった。胃の中でドライフードは、水によって膨れて満腹感を感じるのだろう。そろそろ老犬用のダイエットフードに切り替えようと思う。
岩戸犬 デン 11才
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れるという五感を働かせるのが、俳句の基本と言える。更に、見えないものを見る、聞こえない声を聴こうとすることも俳句だ。
「気配」を辞書で引くと、➀気くばり、手配 ➁何となく感じられる様子、とある。
この句の場合は➁で、寒林に命を宿す全ての、微生物から植物や哺乳類までを含み、作者はそれらに耳を傾けているのだろう。更に、事実を超越した精霊や天使、物の怪や妖怪などや仏や神の世界にまで気配を感じ取れば、俳句の世界は更に広がるだろう。
外来種のガビチョウ(画美鳥)とソウシチョウ(相思鳥)日本の風土に合うのか、着実に増えています。在来種のウグイス(鶯)などの小鳥たち、肩身が狭そうです。