礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡

2016-01-22 04:22:50 | コラムと名言

◎後藤朝太郎、東急東横線に轢かれ死亡

 今月九日のコラム「後藤朝太郎著述書目(1939)」において私は、後藤朝太郎〈ゴトウ・アサタロウ〉は、一〇〇冊以上の著書を持つ学者であるにもかかわらず、「ほとんど研究がなされていないない」と述べた。この発言は、撤回しなければならない。
 その後、国会図書館に赴いて調べてみたところ、一九九七年以降、数は多くないものの、後藤朝太郎に関する、きわめて手堅い研究が発表されていたことに気づいた。
 本日は、そうした論文のひとつである劉家鑫さんの「『支那通』後藤朝太郎の中国認識」(『環日本海研究年報』第4号、一九九七年三月)を紹介してみたい。なお、論文掲載時における劉さんの肩書は、「新潟大学大学院(博士課程)現代社会文化研究科在学」である。
 この論文は、一六ページに及ぶもので、「はじめに」、「一、後藤朝太郎その人」、「二、『大陸浪人』と『支那通』」、「三、後藤朝太郎の中国認識の特質」、「四、後藤朝太郎研究の視覚」、「むすび」の六節によって構成されている。本日は、このうちから、「一、後藤朝太郎その人」を紹介してみる。

一、後藤朝太郎その人
 後藤朝太郎は1881(明治14)年4月、広島県人で平民の後藤栄太郎の次男として愛媛県に生まれた。五高(現熊本大学)時代、あまり目立つ生徒ではなかったらしい。1903年9月、五高から東京帝国大学文科大学言語学科に入学、同窓に橋本進吉、一年後輩に金田一京助が入学している。在学中にマックス・ミューラーの『言語学』(博文館)を翻訳、出版し、早くも識者間にその存在を知られるようになった。1907年7月、大学を卒業、膨大な卒業論文「支那音韻K.T.Pの沿革と由来」には、言語学科主任助教授藤岡勝二の「苦心のあとは明らかに認められる」「論述の方法は大体に於いてよく」などという評語が加えられている。この大学在学の期間は、彼の立身出世の前史に当たるだろう。
 三石善吉〈ミツイシ・ゼンキチ〉は、大学を出てからの後藤の活動を、およそ三つの時期に分けて考えている。第一期は、文字学者、少壮言語学者朝太郎ともいうべき時代で、1907(明治40)年から1917(大正6)年ごろまでの、ほぼ十年間である。1907年9月、後藤は大学院に進学した。「支那語の音韻組織」というのがその研究テーマである。大学院に入ると、彼は言語学を武器に漢字、漢字音の大海に分け入り、旺盛な執筆活動を続け、大学院在学の五年間に、七冊もの著作を世に問うた。彼が大学院を卒業するのが、1912(明治45)年7月、31歳の時であるが、少壮言語学者としての後藤の評価はこの大学院在学中に定まったと言える。こうして、後藤は言語学者から出発した。
 後藤が大学院を卒業する前、アジアの世界は疾風怒涛の時代に入る。そして、この第二期の後藤は文字学からさらに広い規野をもつ「新しい支那学」を提唱するようになる。1918(大正7)年ごろから26(大正15)年ごろまでの時期である。彼の「新しい支那学」とは、従来の経学、歴史、文学のほかに「新しい支那」の「国民生活なり社会の実生活なりの方面」の研究を加えた学問、要するに、総合的な「文明史」の樹立にほかならない。
 三石氏によれば、後藤朝太郎にこの変化をもたらしたものは、以下の四つの要素である。第一に、大正のデモクラチックな時代精神、民衆の動向が観念的にではあれ、大いに重視されたこと。第二に、後藤の文字学・言語学に内在する二つの契機、一つは「少壮文法学派」に固有の現実主義・自然主義的傾向、他の一つは、彼の文字学が「土俗人類学」への傾斜を本来的にもっていたことによる。第三に、従来の漢学が完全に時代遅れのものとなり、青年を引き付けなくなったと後藤が認識していたこと。第四に、度重なる中国旅行のうちに、後藤は魯迅の言う「支那中毒」にかかってしまったことによる。
 特にこの第四の点は、この時期の後藤の明確な特徴となったのである。後藤の従来の文字学はすべて文献操作によっていたものであったが、1918年ごろから26〔年〕ごろまでに、20数回も中国に渡り、生きた中国の現実に触れたことによって、文字学よりも土俗的趣味的側面が異常に拡大され始め、村落的生活とか平民的生活とかいう方面に注目するようになった。この時期の後藤は、東洋協会大学の主事兼教授として、あらゆる休みを利用して中国に渡った。この期間の彼には、軍部の暴走や武力に対する批判、また中国人に対する共感といったものがあったことに留意すべきである。
 1927(昭和2)年から没年の45年までが後藤の第三期、「支那通」の時代である。この時期の後藤は、表面的な支那漫遊記によって、安易な中国紹介がどんどん出版した。後藤がのちのちまで軽蔑の眼で見られるようになったのも、この期の活動によるところが大きい。この期の朝太郎はよく「支那帽」を被り、「支那服」に身を固めた姿で講演会の席上、あるいは街頭に現れていた。自分の著書にもそのような姿の写真を多く使った。それは、後世の我々に当時の様子を想像させるヒントを与えてくれる。国民的な中国蔑視の風潮の中で、「支那通」後藤朝太郎の勇気と信念には相当なものがありそうである。
 大正末年から昭和にかけて、中国問題が盛んになってくる中で、後藤は時流に乗って書きまくった。1927年に11冊、28年に4冊、29年に5冊、30年に8冊、満州事変が起きると、冊数が減って、31年に2冊、32年に1冊。1932(昭和7)年までの6年間に彼が出版した書物は31冊に及ぶ。昭和2年〔一九二七〕などは、ほぼ一カ月に一冊ずつ出版したことになる。このような旺盛な筆力は、やはり旺盛な中国旅行によって支えられていた。彼は昭和初年から昭和7年〔一九三二〕までに、およそ20数回、中国に渡っている。中国への旅には、よく妻や子供、実妹などを連れて行った。
 この期の後藤は、どの著作でも日本人の中国観が「頭から非研究的態度」であることを警告していた。彼が中国愛好者であることによって、日本の対中国政策とか国民の中国侮蔑感をなんとか批判しうる立場を獲得していることに注目すべきである。そのようなことが理由となったのであろう。日中戦争が勃発後、後藤は特高警察の尾行、憲兵の逮捕、大学講義内容の検閲、巣鴨拘置所入り等々の迫害を受けるようになり、ついに敗戦直前の1945(昭和20)年8月9日夜八時半、都立高校駅踏切で轢死を装い暗殺されるに至る。
 三石氏は後藤朝太郎の一生を三期に区分したが、三石の分け方を前提にして、もう一時期を加えるべきである。後藤の一生は彼の立身出世前史を入れれば、主に四つの段階に分けられるのではないかと筆者は考える。第一段階(1903~1907)は大学生で、勉学しながら名著を翻訳したりコツコツと自分の言語学の基礎を立てた時期である。この時期(1906年12月)には翻訳書『言語学』を博文館から出版した。これは除外されるべきではない時期だと思う。第二段階(1907~1917)は文字学者、少壮言語学者の時期であり、第三段階(1918~1926)は中国の現実に触れて旺盛に創作しはじめた時期であって、第四段階(1927~1945)は「支那通」で研究者たちからは軽蔑な眼で見られながらも、中国の民族文化や民衆社会を鑑賞、描写する一方、日本の軍国主義権力者に対して、精神的心理的に抵抗した時期でもあった。

 引用文中、「三石善吉」とあるのは、『朝日ジャーナル』一九七二年八月一一日号に「近代日本と中国(27)後藤朝太郎と井上紅梅」という論文を寄せた中国史学者の三石善吉氏(筑波大学名誉教授)のことである。この三石論文は、劉論文に先行する後藤朝太郎研究としては、ほとんど唯一のものと言ってよい(のちに、竹内好・橋川文三編『近代日本と中国 下』朝日新聞社、一九七四、に収録)。ただし、三石氏の後藤に対する評価は、決して肯定的なものではない。
 私は、この劉さんの論文によって、初めて、後藤朝太郎の死の「真相」を知った。やはり、後藤は、特高警察あるいは憲兵にマークされていたのである。「都立高校駅踏切」とあるのは、東急東横線と目黒通りが交差していた踏切で、今日においては、「都立大学駅」北側の目黒通りガードにあたると思われる。おそらく後藤朝太郎は、都立高校駅北側の踏切で、電車が通過するのを待っていた際、何者かに突き出され、東急線の電車に轢かれたのであろう。
 ただし、劉さんは、この後藤朝太郎の死に関わる情報の出所を明記していない。おそらくこれについては、劉さんが一九九八年一月に発表された論文「後藤朝太郎・長野朗子孫訪問記および著作目録」(『環日本海論叢』第14号)で、明らかにされていると推定されるが、国立国会図書館では、この論文を閲覧することができなかった。この論文は、きわめて重要なものと思われるので、インターネットなどで、公開していただくことを要望したい。
 なお、後藤朝太郎を「暗殺」した実行犯は、もちろん断定はできないが、特高警察や憲兵の動きに呼応していた民間右翼あたりではなかったのか。

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3 コメント

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後藤朝太郎の漢字音符 (石沢誠司)
2021-10-05 02:12:07
後藤朝太郎の漢字音符について調べており、まず彼の経歴を調べています。劉家鑫氏の論文『支那通』後藤朝太郎の中国認識」は、すぐに読めませんが、このブログで紹介していただき、拝読することができました。ありがとうございます。
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お役に立てて光栄です (礫川)
2021-10-08 07:26:12
石沢書店の石沢さんではないかと拝察いたします。
お役に立てて光栄です。今後ともよろしくお願いします。
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漢字音符研究の魁 後藤朝太郎 (石沢誠司)
2021-11-26 00:28:11
おかげさまで、後藤朝太郎の漢字音研究について「漢字音符研究の魁 後藤朝太郎 上・中・下」としてまとめ、ブログ上で発表することができました。ありがとうございます。
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