戦後の混乱期に運輸省規格型でつくられたとされる富山地鉄のモハ14750形(落成時はモハ1500形)の謎に迫るべく訪れた「ポッポの丘」の話の続きです。
同所の新たな展示車両として加わった長野電鉄のモハ1000形1003号車(所有は「運輸省規格型電車保存会」)が、ほぼ、地鉄のモハ14750形のコピー車体であることを知って訪れたわけですが、迫りたかった謎はただひとつ、正確な寸法です。モヤモヤの解消に実車の採寸ほど特効薬はありません。
以下は、参考資料(原典は鉄道ピクトリアル)を元に、運輸省規格型電車の規格と実車の対比をしながら「規格破り」な点を考察しています。
運輸省規格型電車というと運輸省が規格を制定して守らせた印象がありますが、正確には「社団法人日本鉄道協会が運輸省の指導をうけて、地方鉄道・軌道の新製車両に対する規格を定め、傘下の私鉄にこの線に沿って行動することを求めた」というのが実態のようです。このときの規格が「私鉄郊外電車設計要項」で昭和22年版と昭和24年版があるとされます。モハ14750形(竣工時はモハ1500形)は昭和22年度の「A'」と呼ばれる車体長17m、全幅2.7mの規格でつくられました。
車体関係について昭和22年版の規格では、窓幅は700mm又は800mm、客扉の幅は1,100mm又は1,150mmのいずれかとすることが求められ、しかも窓幅を700mmとする場合の扉幅は1,100mm、窓幅を800mmとする場合の扉幅は1,150mmとする、と定められていたようです。戸袋のことを考えればこの組み合わせは妥当かなと思うのですが、この情報がそもそもの「謎」の始まりでした。
写真判断では窓幅はどうみても狭い方の700mmに見えます。ということは客扉の幅は1,100mmということになります。窓柱は定かでないですが100mmとしておこう、乗務員扉はなんか広めだから600mmぐらいか・・・。と、この縛りで本に載った真横写真を使い、比率計算で模型設計図を起こそうとしたのですがどうにも合いません。う~んどこかに間違いがあるのか。。
で、実車の採寸となったわけですが結果は驚くべきものでした。思い込みがいかに危険かを思い知らされました。
窓幅は予想通り700mmでしたが、窓柱は100mmではなく80mmでした。しかも本当の柱部分は50mmで、その両側に15mmずつ“窓枠押さえ”がついて合計80mmになるという計算です。この長電は木枠窓ですが地鉄はアルミサッシに交換されているので、そのコントラストから80mm全体が窓柱のように見えます。20mmの誤差でしたが、トータルで10本の窓柱があるので200mmと大きい誤差になります。
次に客扉の幅ですが、700mm窓に対しては1,100mmであるべきものがなんと1,150mmでした。堂々たる「規格破り」です(笑)。地鉄のモハ1500形の製造年は書籍やHPでは昭和23年とされていますが、竣工が23年にずれ込んだだけで実際は昭和22年度規格の配給割当を受けているので1,100mmでなくてはいけませんが、どうやら昭和22年、23年、24年と進むにつれてこうした規格外のものも現れてきたとのことです。
こと車両づくりには一家言ある富山地鉄と老舗・日本車両がタッグを組んだ精一杯の反乱だったのかも知れませんが、なぜ700mmと1,150mmの組み合わせに拘ったのかは不明です。おそらく前者は当時の他の車両との共通化ないしはクロスシートとした場合のバランス、後者は、地方都市とはいえ朝夕のラッシュをさばくには広幅のドアが求められたことなどがその理由ではないかと推察されます。
なお、客扉左右の吹寄せの幅は、狭窓に広幅扉を組み合わせていることから、予想より広めの460mmもありました。
乗務員扉は予想どおり600mmでした。しかも引戸で、富山地鉄では雪対策として昔から採用されてきたとされるスタイル(なお、なぜ雪対策になるのかは不詳)、コピー版の長電(1000形は翌年の昭和23年度割当分)にも採用されてしまったのは、いかに当時の車両供給事情が苦しかったかを物語るものとして興味深いです。さらに言えば2段窓というのも珍しく、運転士の場合はよいが車掌は扱いにくかったのではないかと勘繰ってしまいます。
最後に、現地でも測れなかったものが半流スタイルの運転台前面、すなわち車端から乗務員扉までの寸法で、このように望遠撮影した真横写真から乗務員扉とほぼ同じ600mmぐらいではないかと予想しました。あと、腰板や窓などの天地寸法も測れなかったので、真横写真から比率計算で求めることにしました。
ということで必要な情報はすべて手に入ったのですが、帰ってからインターネットを徘徊していると、いつも参考にしている「ぜかまし文庫」さんのところにそのものズバリの図面が収蔵されていて膝から崩れ落ちました。灯台下暗しです。モハ1500形の1と2がのちのモハ14751と14752、クハ1050形の1と2が電装されてのちのモハ14753と14755になっています。
モハの図面には窓幅の記載がありませんでしたがクハの方にはありました。ポッポの丘で測ってきたものは運転台部分で少し誤差がありましたが、その他は実測どおりでした。ちなみに長電モハ1000形の図面も収蔵されていて完全コピー版であることを確認しました。この図面は長電のものです。
これが崩れ落ちた体制を立て直して何とか描いた模型化寸法です。地鉄の図面では客扉は車両中心方向に開くように描かれていますが(当時の写真でもそうなっている)、クロスシート化を考慮したのかその後の改造で長電と同じく運転室方向へ開くようになり、運転室と客扉の間の窓は3か所中2か所が戸袋(開くのは中央の1か所のみ)というマニアックな構造になっています。ま~2段窓表現を拒み続ける当工場には関係ない話ですけど。。笑
いかがだったでしょうか。久々に「重箱の隅つつき隊」の活動をしてしまいましたが、設計者の意図を推し測りながら模型図面を描くのはやはり楽しい作業です。モハ14750形の晩年仕様の製作モチベーションがかなりアップしました。
同所の新たな展示車両として加わった長野電鉄のモハ1000形1003号車(所有は「運輸省規格型電車保存会」)が、ほぼ、地鉄のモハ14750形のコピー車体であることを知って訪れたわけですが、迫りたかった謎はただひとつ、正確な寸法です。モヤモヤの解消に実車の採寸ほど特効薬はありません。
以下は、参考資料(原典は鉄道ピクトリアル)を元に、運輸省規格型電車の規格と実車の対比をしながら「規格破り」な点を考察しています。
運輸省規格型電車というと運輸省が規格を制定して守らせた印象がありますが、正確には「社団法人日本鉄道協会が運輸省の指導をうけて、地方鉄道・軌道の新製車両に対する規格を定め、傘下の私鉄にこの線に沿って行動することを求めた」というのが実態のようです。このときの規格が「私鉄郊外電車設計要項」で昭和22年版と昭和24年版があるとされます。モハ14750形(竣工時はモハ1500形)は昭和22年度の「A'」と呼ばれる車体長17m、全幅2.7mの規格でつくられました。
車体関係について昭和22年版の規格では、窓幅は700mm又は800mm、客扉の幅は1,100mm又は1,150mmのいずれかとすることが求められ、しかも窓幅を700mmとする場合の扉幅は1,100mm、窓幅を800mmとする場合の扉幅は1,150mmとする、と定められていたようです。戸袋のことを考えればこの組み合わせは妥当かなと思うのですが、この情報がそもそもの「謎」の始まりでした。
写真判断では窓幅はどうみても狭い方の700mmに見えます。ということは客扉の幅は1,100mmということになります。窓柱は定かでないですが100mmとしておこう、乗務員扉はなんか広めだから600mmぐらいか・・・。と、この縛りで本に載った真横写真を使い、比率計算で模型設計図を起こそうとしたのですがどうにも合いません。う~んどこかに間違いがあるのか。。
で、実車の採寸となったわけですが結果は驚くべきものでした。思い込みがいかに危険かを思い知らされました。
窓幅は予想通り700mmでしたが、窓柱は100mmではなく80mmでした。しかも本当の柱部分は50mmで、その両側に15mmずつ“窓枠押さえ”がついて合計80mmになるという計算です。この長電は木枠窓ですが地鉄はアルミサッシに交換されているので、そのコントラストから80mm全体が窓柱のように見えます。20mmの誤差でしたが、トータルで10本の窓柱があるので200mmと大きい誤差になります。
次に客扉の幅ですが、700mm窓に対しては1,100mmであるべきものがなんと1,150mmでした。堂々たる「規格破り」です(笑)。地鉄のモハ1500形の製造年は書籍やHPでは昭和23年とされていますが、竣工が23年にずれ込んだだけで実際は昭和22年度規格の配給割当を受けているので1,100mmでなくてはいけませんが、どうやら昭和22年、23年、24年と進むにつれてこうした規格外のものも現れてきたとのことです。
こと車両づくりには一家言ある富山地鉄と老舗・日本車両がタッグを組んだ精一杯の反乱だったのかも知れませんが、なぜ700mmと1,150mmの組み合わせに拘ったのかは不明です。おそらく前者は当時の他の車両との共通化ないしはクロスシートとした場合のバランス、後者は、地方都市とはいえ朝夕のラッシュをさばくには広幅のドアが求められたことなどがその理由ではないかと推察されます。
なお、客扉左右の吹寄せの幅は、狭窓に広幅扉を組み合わせていることから、予想より広めの460mmもありました。
乗務員扉は予想どおり600mmでした。しかも引戸で、富山地鉄では雪対策として昔から採用されてきたとされるスタイル(なお、なぜ雪対策になるのかは不詳)、コピー版の長電(1000形は翌年の昭和23年度割当分)にも採用されてしまったのは、いかに当時の車両供給事情が苦しかったかを物語るものとして興味深いです。さらに言えば2段窓というのも珍しく、運転士の場合はよいが車掌は扱いにくかったのではないかと勘繰ってしまいます。
最後に、現地でも測れなかったものが半流スタイルの運転台前面、すなわち車端から乗務員扉までの寸法で、このように望遠撮影した真横写真から乗務員扉とほぼ同じ600mmぐらいではないかと予想しました。あと、腰板や窓などの天地寸法も測れなかったので、真横写真から比率計算で求めることにしました。
ということで必要な情報はすべて手に入ったのですが、帰ってからインターネットを徘徊していると、いつも参考にしている「ぜかまし文庫」さんのところにそのものズバリの図面が収蔵されていて膝から崩れ落ちました。灯台下暗しです。モハ1500形の1と2がのちのモハ14751と14752、クハ1050形の1と2が電装されてのちのモハ14753と14755になっています。
モハの図面には窓幅の記載がありませんでしたがクハの方にはありました。ポッポの丘で測ってきたものは運転台部分で少し誤差がありましたが、その他は実測どおりでした。ちなみに長電モハ1000形の図面も収蔵されていて完全コピー版であることを確認しました。この図面は長電のものです。
これが崩れ落ちた体制を立て直して何とか描いた模型化寸法です。地鉄の図面では客扉は車両中心方向に開くように描かれていますが(当時の写真でもそうなっている)、クロスシート化を考慮したのかその後の改造で長電と同じく運転室方向へ開くようになり、運転室と客扉の間の窓は3か所中2か所が戸袋(開くのは中央の1か所のみ)というマニアックな構造になっています。ま~2段窓表現を拒み続ける当工場には関係ない話ですけど。。笑
いかがだったでしょうか。久々に「重箱の隅つつき隊」の活動をしてしまいましたが、設計者の意図を推し測りながら模型図面を描くのはやはり楽しい作業です。モハ14750形の晩年仕様の製作モチベーションがかなりアップしました。