4月8日、お釈迦様の誕生日。
王子のさくらホールにて行われた【オーケストラで歌う 二つの平和讃歌】に、
中学の同級生・新南田(旧姓・笠原)ゆりさんが、
ソリストとして出演されました。
第1部のカンタータ「この灯を永遠に」は、作曲家・安藤由布樹先生によるもの。
故・山本達雄さんが、広島から星野村に原爆の火を持ち帰り、
原爆で亡くなられた多くの人々の供養と恨みの火として、
密かに灯し続けられていた物語。
昭和43年からは星野村役場が永遠の平和への道標として守る事になり、
その火は全国各地に分火されています。
おじいちゃん(山本達雄)が、
孫に原爆のむごさを語る形式で物語は進行します。
話を聴いて、「アメリカをやっつけよう!」
と泣きじゃくる孫達に、
「恨んじゃいけない。その報いはまた、子どもや孫が受けることになる」
主人公・達雄の祖母役が、同級生のゆりさん。
重いテーマですが、
彼女が歌うとぱっと和み、優しい空気に変わります。
役どころから、着物で舞台に立つ事になり、
彼女はご自分のお母様の着物で登場しました。
その着物は、やはり同級生の営む呉服屋・「つむぎや」さんで求めたものでした。
「つむぎや」さんの先代の女将さんは、すでにお亡くなりになっていますが、
ご自分のコーディネートした着物がオペラの衣装になるとは、
思いもよらなかったでしょう。
ゆりさんからご招待を受けた、
現社長の同級生N君は、この日のために羽織を新調。
「着物を来てオペラに行こう」と、N君に誘われた私も、
「つむぎや」さんで求めた有職文様の訪問着、最も好きな一枚です。
ゆりさんと私は、中学一年の時同じクラス、仲良しグループの一員でした。
私の彼女の印象は、「利発で、ぴかぴか☆」な感じ。
他のお友達にはない魅力をもっていました。
ゆりさんが、お姫様のようなドレス姿で、
芸大のオーケストラをバックにピアノを弾いたのを、
上野の文化会館へ聴きに行ったことを、今でも鮮明に覚えています。
ですから、音楽で身を立てられたことには何の不思議もありません。
でも、HPで彼女のプロフィールを読み、びっくりしました。
ご家庭の事情で、ご本人は音大の進学は考えていなかったけれど、
周りのススメで受験を決め、独学で桐朋音大へ入学、とありました。
ゆりさんのご自宅にも遊びに行き、上品で優しいお母様に接し、
「ああ、ゆりちゃんて、なんて愛されているんだろう」
と、私は子どもながらに感じたものです。
その後、お父様がお倒れになり、
彼女が家事全般を引き受けながら高校生活を送っていたなどとは、
思いもよりませんでした。
そうはいっても、やはり本当に才能ある人を、
周りはほっとくわけないですね。
いつも誰かの後押しや応援があり、
ご本人も、ひた向きに努力してこられたのですね。
時を経て、歌姫として舞台に立つゆりさんは、
あいも変わらずきらきらと輝いていました。
このオーケストラのコンサートマスターのヴァイオリンは、
かの陸前高田の流木から創られたものだそう。
順次、被災者支援のために演奏される、第一番目でもありました。
いろんな意味で、意義深いプログラムを聴きにこられたのも、
着物がとりもつご縁でした。感謝。
王子のさくらホールにて行われた【オーケストラで歌う 二つの平和讃歌】に、
中学の同級生・新南田(旧姓・笠原)ゆりさんが、
ソリストとして出演されました。
第1部のカンタータ「この灯を永遠に」は、作曲家・安藤由布樹先生によるもの。
故・山本達雄さんが、広島から星野村に原爆の火を持ち帰り、
原爆で亡くなられた多くの人々の供養と恨みの火として、
密かに灯し続けられていた物語。
昭和43年からは星野村役場が永遠の平和への道標として守る事になり、
その火は全国各地に分火されています。
おじいちゃん(山本達雄)が、
孫に原爆のむごさを語る形式で物語は進行します。
話を聴いて、「アメリカをやっつけよう!」
と泣きじゃくる孫達に、
「恨んじゃいけない。その報いはまた、子どもや孫が受けることになる」
主人公・達雄の祖母役が、同級生のゆりさん。
重いテーマですが、
彼女が歌うとぱっと和み、優しい空気に変わります。
役どころから、着物で舞台に立つ事になり、
彼女はご自分のお母様の着物で登場しました。
その着物は、やはり同級生の営む呉服屋・「つむぎや」さんで求めたものでした。
「つむぎや」さんの先代の女将さんは、すでにお亡くなりになっていますが、
ご自分のコーディネートした着物がオペラの衣装になるとは、
思いもよらなかったでしょう。
ゆりさんからご招待を受けた、
現社長の同級生N君は、この日のために羽織を新調。
「着物を来てオペラに行こう」と、N君に誘われた私も、
「つむぎや」さんで求めた有職文様の訪問着、最も好きな一枚です。
ゆりさんと私は、中学一年の時同じクラス、仲良しグループの一員でした。
私の彼女の印象は、「利発で、ぴかぴか☆」な感じ。
他のお友達にはない魅力をもっていました。
ゆりさんが、お姫様のようなドレス姿で、
芸大のオーケストラをバックにピアノを弾いたのを、
上野の文化会館へ聴きに行ったことを、今でも鮮明に覚えています。
ですから、音楽で身を立てられたことには何の不思議もありません。
でも、HPで彼女のプロフィールを読み、びっくりしました。
ご家庭の事情で、ご本人は音大の進学は考えていなかったけれど、
周りのススメで受験を決め、独学で桐朋音大へ入学、とありました。
ゆりさんのご自宅にも遊びに行き、上品で優しいお母様に接し、
「ああ、ゆりちゃんて、なんて愛されているんだろう」
と、私は子どもながらに感じたものです。
その後、お父様がお倒れになり、
彼女が家事全般を引き受けながら高校生活を送っていたなどとは、
思いもよりませんでした。
そうはいっても、やはり本当に才能ある人を、
周りはほっとくわけないですね。
いつも誰かの後押しや応援があり、
ご本人も、ひた向きに努力してこられたのですね。
時を経て、歌姫として舞台に立つゆりさんは、
あいも変わらずきらきらと輝いていました。
このオーケストラのコンサートマスターのヴァイオリンは、
かの陸前高田の流木から創られたものだそう。
順次、被災者支援のために演奏される、第一番目でもありました。
いろんな意味で、意義深いプログラムを聴きにこられたのも、
着物がとりもつご縁でした。感謝。