( パムッカレからの遠望 )
第5日目 5月17日 一時小雨
今日は早起きして、7時30分にバスでホテルを出発する。
昨日行く予定だったパムッカレの石灰棚とヒエラポリス遺跡を見学し、そのあと6時間のバス移動で、コンヤを目指す。
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< 石灰棚の温泉と廃墟のヒエラポリス >
パムッカレとは、「綿の宮殿」という意味らしい。麓から見ると、真っ白い雪の山のように見える。
( 純白の石灰棚 )
雨水が地下水となり地熱で温められて、温泉水として湧き出、台地の東側の山肌を流れ落ちる。長い年月をかけて、温泉水中に含まれる炭酸カルシウム(石灰)が沈殿し、純白の棚田の景観を作り出したのだ。棚のプールは100以上あるという。台地上の古代都市ヒエラポリス遺跡を併せて、世界遺産だ。
石灰棚のある台地の上からは、トルコらしい美しい景観が望まれた。
( 石灰棚の上からの景観 )
以前は石灰棚で入浴できたが、今は温泉が涸れつつあること、それに景観保護の観点からも禁止され、一部で足湯ができるだけ。
( 足 湯 )
ガイドのDさん「希望の方は足湯に行ってください。でも、とても滑りやすいから、気を付けてください」。
世界遺産の足湯から帰ってきた一人のご主人「気を付けても、必ず滑ります!!(笑)」。
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石灰棚は、広々とした台地の東端の急斜面にあるが、ヒエラポリスは、その台地上に、ベルガモン王国の時代に建設された町だ。
その後、ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。
ローマは行く先々で、道路を整備し、町を建設して、町には必ず劇場や大浴場を造ったから、その地に温泉が湧いていれば大喜びだ。
( 遺 跡 )
ローマ帝国時代のAD2世紀に造られた劇場が、ヒエラポリス遺跡の目玉である。野の花の咲く野の向こうに見える。
( 劇場の遺跡 )
古代都市ヒエラポリスは度重なる地震で崩れていったが、ローマ時代の遺跡が底に沈んだ透明度の高い温水プールがある。入浴可能だが、湯の温度は35度とやや低め。
( ローの時代の遺跡の沈んだ温泉 )
遺跡の上を、パラグライダーが、一機、二機、三機、飛んで行った。
( 遺跡の上を飛ぶ )
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< コンヤ向けて400キロ >
この何日か、ヘレニズム時代からローマ時代の数々の遺跡を見て回った。現代のトルコとは直接つながらない、遠い遠い時代の都市の廃墟を見てまわり、堪能した。エーゲ海地方の青空も、古代遺跡も、心に残った。
これからバスは東へ東へと走る。
トルコの国土の大部分を占めるアジア側は、東西に長い四角形の形をした半島である。北は海峡によって結ばれた黒海とマルマラ海、西はエーゲ海、南西は地中海に囲まれていて、地続きは南東と東側だけである。この大きな半島を、古くから人々は「小アジア」とも「アナトリア(半島)」とも言ってきた。
古くは「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東へと広大な大地が広がることを知り、「小アジア」と呼ばれるようになった。
「アナトリア」は、東ローマ帝国時代、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区を置き、「アナトリコン」と名付けたことに由来するらしい。「アナトリコン」とは、日出る所という意味だとか。
その横長の四角形の南部を、東から西へトロス山脈が走っている。トロス山脈が地中海に切れ落ちた先がロードス島である。ヨハネ騎士団が立て籠もり、オスマン帝国最盛期のスレイマン大帝の大軍と戦った島だ。
トロス山脈に沿って東へ400キロほど行くと、セルジューク時代(11世紀後半~13世紀前半)の都コンヤがある。今日は午後おそくコンヤに着き、コンヤ見学後、宿泊する。
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< トルコのイスラム教のこと >
長いバス旅の中で、ガイドのDさんの話。
〇 日本人のお客様から、現在のトルコの大統領(エルドアン大統領)について、Dさんはどう思うかと、意見或いは感想をよく聞かれる。私は、政治の話はしたくないし、しないようにしている。また、日本の首相の安倍さんについて話しかけてくるお客様もいる。私は、今の日本の政治についてある程度知っているけれど、私はトルコ人で、かつ、日本人のお客様を相手にしている。安倍さんについて意見や感想を求められても困る。
結局、一人一人がよく考えて、しっかり投票する、それ以外にないと思う。トルコ人も、選挙が近づくと、あちこちで熱心に語り合っている。それが大事だと思う。
〇 トルコを知ってもらうために、トルコの宗教の話をします。
1923年にオスマン帝国が滅亡し、アタチュルク大統領の下に共和制の国になった。そのとき、明確に政教分離の原則が打ち立てられました。その点、他のイスラム圏の国々とは趣を異にすると思います。
国民の9割は、自分の宗教を聞かれたらイスラム教と答えるでしょうが、今、イスラム圏以外の世界がイメージするイスラム教徒とは違うと思います。例えば、よく言われる一夫多妻制も、トルコでは禁止されています。
イスラム教はスンニ派とシーア派に分かれて今も激しく争っていますが、トルコでは宗派の違いもありません。大なり小なりイスラム教を信じているという人々も、そういうこととは関係なく、もっと素朴に信じているのです。
〇 イスラム教では5つの戒律が言われます。まず、アッラーを唯一の神とし、マホメットを最高の預言者と認めることです。トルコ人の多くは、漠然と、神はアッラー、マホメットは偉い預言者と思っています。
〇 1日5回、身を清め、祈ること。これはなかなかそうはいきません。
〇 3つ目はラマダーンの断食です。今年は、昨日、5月16日から始まりました。1か月間、日の出から日の入りまで断食するのです。これは、貧しい人や飢えた人への思いを忘れないという趣旨で行われるもので、トルコ人は比較的よく守っています。この間、喧嘩やいさかいも避けます。トルコ人は、他者に対して優しいと私は思います。西欧社会と比べたら、トルコで物乞いの人の姿を見ることはほとんどないと思います。隣人に対する相互扶助の精神があるからです。
〇 4つめは、ラマダンと精神は同じですが、貧しい人に寄付や施しをすることです。
〇 5つ目はメッカへの巡礼ですが、総じていえば、現在のトルコのイスラム教は、ジハードなどのエキセントリックな要素はなく、他者を思い、他者とともに生きていくという心を大切にする教えになっていると思います。
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窓の景色は豊かな田園風景で、緑が目にやわらかく、飽きることがない。
ケシの花畑がある。一面に白いケシの花が咲く光景は清楚で、ピンクの花の咲くケシ畑はロマンチックである。
途中の休憩では、蜂蜜入りのヤギのヨーグルトを食べてみた。チャイとよく合って、とても美味であった。
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< コンヤを首都としたセルジューク朝について >
旅に出る前に勉強しても、あまり頭に入らない。旅を終え、机に向かって、見てきたものについて、あれは何だったのだろうと調べていくと、よくわかる。ブログに書こうと思って勉強すると、もっとよくわかる。
さて、中央アジアを中心に、モンゴル高原からシベリア、やがてはアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって、テュルク語を母語とし、遊牧の生活をしていた人々をテュルク系民族というそうだ。中国史に登場する狄(テキ。「夷狄」という言葉がある)や突厥(トッケツ)も、この民族のことらしい。
彼らのうち、10世紀後半に、イスラム教(スンニ派)に改宗してムスリムとなった部族をトゥルクマーンという。
その中のセルジューク家に率いられた勢力が強大になり、11世紀~12世紀に、現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心とした地に建国したのがセルジューク朝(1038年~1157年)である。宗主は初めてスルタンの称号を使った。
私たちが学校で習ったのはセルジュークトルコ。今は、セルジューク朝或いはセルジューク帝国。セルジューク帝国の中には、多くの地方政権が存在していた。
その中で、今も国として存立しているのは、その最西端にあったトルコのみである。もちろん、今はセルジュークではない。
1071年、セルジューク朝は東ローマ帝国との戦いに勝利し、負けた東ローマ帝国のアナトリア方面の防衛が手薄になった。そこへ、セルジューク朝の支配を好まないトゥルクマーンやトゥルク系の人々が多数流入し、アナトリアのテュルク化(トルコ化)が進んだ。
さらに、セルジューク朝は、アナトリア地方にセルジューク系の地方政権をつくることを支援し、その結果、1077年に誕生したのがルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)である。
「ルーム」はローマの意味で、東ローマ帝国領であったアナトリアの地を指す言葉として、イスラム教徒の間で使われていたらしい。
以後、ギリシャ正教徒であった住民たちは、領主となったトゥルクマーンの支配下に置かれ、テュルク語が浸透していき、アナトリアのトルコ化が進んだ。ただし、ギリシャ系の人々は被支配民ではあるが、キリスト教からの改宗を強制されることはなかった。
行政の分野では、トルコ系以外に、在地のギリシャ系住民やモンゴル軍に追われて逃げてきたイラン系の人間も広く登用されたようだ。(これらの点では、後に興るオスマン朝も同じである)。
1096年の第1回十字軍、1189年の第3回十字軍の時には、首都コンヤを占領されるという危機もあった。
セルジューク朝(大セルジューク朝)は衰退し、1157年には滅亡するが、ルーム・セルジューク朝は黒海や地中海貿易を始め、12世紀後半に最盛期を迎えた。
しかし、13世紀に圧倒的なモンゴルの支配下に置かれ、やがて消滅した。
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< コンヤの宗教文化を見学する >
ルーム・セルジューク朝の時代、アナトリア地方の各都市にモスクやイスラム教の学院が建設され、アナトリアのイスラム化が進んだ。
ただ、遊牧民のイスラム教はシャーマニズムに近いものもあり、修行僧や長老たちの影響下に置かれ、神秘主義の宗教家も現れた。その代表が、メヴレヴィー教団の祖であるメヴラーナ・ジャラール・ウッディーン・ルーミーである。観光の世界では、コンヤというと、メヴレヴィー教団の円舞である。
滞在した時間が少なかったから、よくわからなかったが、今のコンヤは、ルーム・セルジューク朝時代の都というより、トルコの中で比較的に宗教色の強い、或いは、宗教色の残る町、という特色をもっているように感じた。
街の中心近くにアラアッディンの丘があり、公園になっていて、アラアッディン・ジャーミィ(ジャーミィはモスクのこと)と、メヴラーナ博物館がある。このツアーに限らず、日本のツアーのコンヤの見学先はこの二つである。
アラアッディン・ジャーミィは、ルーム・セルジューク朝の最盛期の1221年に完成されたモスクだ。
( アラアッディン・ジャーミィ )
スペインのコルドバのメスキータのような、簡素だが壮麗なイスラム教寺院が頭にあったが、外観も中も、平凡だった。大広間も簡素で、畳の代わりに絨毯が敷いてある道場である。(コルドバのメスキータについては、当ブログ「陽春のスペイン紀行」の4「イスラム時代の古都の風情を残すコルドバ」を参照)。
それが本来の宗教施設のあり方で、キリスト教の大聖堂のような建物の方がおかしいのかもしれない。
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メヴラーナ博物館は、イスラム教神秘主義の創始者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルミーの霊廟。
緑色のタイルで覆われた円錐形の屋根を持つ建物が霊廟である。
そのほか、モスク、僧院、修行場などもある。
( メヴラーナ博物館 )
この教団は、ぐるぐると旋回する円舞によって一種の陶酔状態になるという怪しげな修行で有名だ。そういう神秘主義のため、1925年、オスマン帝国が打倒され、トルコ共和国が生まれた時、アタチュルク大統領によって、修行場は閉鎖され、教団も解散させられた。そして、2年後に、霊廟は博物館となり、文化財として一般公開された。
霊廟に入ると、金刺繍のカバーがかけられた棺が並び、その中央がメヴラーナの棺だという。しかし、それがいつの時代のどこの国のものであろうと、私は人の棺を見学したいとは思わない。
ただここで聞いた創始者メヴラーナの言葉の2、3は、怪しげな宗教の割には、古老の箴言のように晴朗で、含蓄があり、味わい深いと思った。それに、どの部屋も、キリスト教会や仏教寺院のように薄暗くないのも、良い。
他の部屋には、メヴラーナの身の回りの品や、セルジューク時代の工芸品、書物、韻文の書などが陳列されていた。
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アラアッディンの丘を出て、バスが待つパーキングの方へ、公園沿いのトラムが走る道を歩いていると、公園の丘から盛んに手を振る少年たちの姿が見えた。サッカーをして遊んでいた少年たちだが、先ほどここへ来る時にも手を振っていた。手を振り返すと、喜んで、さらに手を振ってくれる。
ガイドのDさん「トルコの子どもたちは日本人が好きなんです。小学校の教科書にも両国友情のエピソードが載っていますから」。
( 手を振る少年たち )
翌日、カッバドキアに向かうバスの中で、最近、映画『海難1890』にもなった話、以前、NHKの『プロジェクトX』で放映されたビデオを見た。
この、両国を結ぶ2つのエピソードは、当ブログの「国内旅行…紀伊・熊野へ」(2012、9)2の「樫野崎(カシノザキ)灯台、そしてトルコとの友情」に詳しく書いているので、ご存知ない方はぜひ読んでください。
少なくとも、これからトルコ旅行に出かけるという方は、その前に。NHKの『プロジェクトX』が忖度して描かなかったことも、少し突っ込んで書いています。
( コンヤの街を走るトラム )