ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

モーゼル川の岸辺の町…ネーデルランド(低地地方)への旅(4)

2017年11月10日 | 西欧旅行…ベネルクス3国の旅

   ( モーゼル川の岸辺のベルンカステル )

モーゼル川の岸辺の町ベルンカステル >

 リューデスハイムを出て、やがてバスはモーゼル川沿いの道を走る。

 モーゼル川はライン川に流れ込む大きな川の一つで、この川の上流にルクセンブルグがある。今夜の宿は、ルクセンブルグだ。

 走ること約2時間。対岸の丘の麓に、眠気を覚ますような美しい町が見えてきた。

 ベルンカステル。ルクセンブルグとの国境まで直線距離にして約60キロという所にある小さな町だ。

 緑の丘があり、丘の麓に並ぶ白壁に青い屋根の家々が、川面の青に映える。ドイツは本当に美しい国である。

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 バスを降り、徒歩でモーゼル川に架かる橋を渡った。

    ( モーゼル川の橋から )

 岸辺には、これも瀟洒な色合いの船が停泊している。

 昔からフランスやドイツを流れる大河とその流域の川は、さらに運河によって結ばれ、水運に使われてきた。

 今、ヨーロッパには、そういう水の道をたどって船旅をするという優雅なツアーもある。

 歴史ある町の中をゆったりと流れる川。町から次の町までの間は自然豊かな美しい水路。そういう水の上に寝泊まりしながら、何日もかけて、船の旅をする。船は小さな動くホテルだ。

   ただし、私自身はそのような旅にはあこがれない。それは旅というより、リゾートの気分だ。

 船の向こうの緑の丘は一面のブドウ畑だ。ブドウ畑の上のお城は、ランツフート城。

 ここで収穫されたブドウを醸造したワインは、「ベルンカステラー・ドクトル」と言うそうだ。

 以下は、紅山雪夫の『ドイツものしり紀行』から。

 「トリーア大司教ポエムントⅡ世がランツフート城で重い病にかかり、もはやこれまでと思われたとき、今生の名残にこの畑からとれたワインを毎日少しずつ飲んでいたところ、さしもの重い病が次第になおって、健康を取り戻すことができた。それまではどんな医師の薬を飲んでもダメだったのである。以来このブドウ畑にも、そこからとれるワインにも、大司教のお声がかりでドクトルの名が冠せられるようになったと伝えられている」。

 私ももはやこれまでという最期の日々は、今生の名残として、毎日、昼には冷えた白ワイン少々、夕には燗酒を少しいただきたいと思う

 話はそれて、ここで紅山雪夫(ベニヤマ ユキオ) 氏について一言。

 最近まで、このお名前はペンネームだとばかり思っていた。だが、ブックカバーの著者紹介によれば本名だった。1927年、大阪府豊中市で生まれたが、生まれた日が大雪だったのでこう名付けられたと、わざわざ紹介されている。旧制豊中中学校を経て東大法学部卒。日本旅行作家協会理事などを務めた。博識で、西ヨーロッパ各国の歴史・地理・文化をわかりやすい文章で紹介している。叢書ではないから、取り上げられている地域に限界があるが、わかりやすさと水準の高さにおいて、私の知る限りヨーロッパ旅行の最高の案内書である。

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 橋を渡って町の中に入ると、すぐに町の中心のマルクト広場に出た。

 広場の一角には大天使ミカエルの泉があり、その後ろに市庁舎。広場を囲むように、立派な木組みの家々が並んでいる。

 木組みとはいえ、屋根裏部屋の屋上階までいれると、5階建ての建物である。

 あの屋根裏部屋にしばらく滞在して、窓から広場を行き来する町の人々を眺めたり、広場のカフェでのんびりとコーヒーを飲んだり、モーゼル川の流れやブドウ畑の上の白い雲を眺めて過ごしたら、さぞ気持ちがいいだろう。ただし、2、3日でいい。

 3階に、観光客らしい人が見えた。こちらに手を振っている。

  ( 市庁舎と大天使ミカエルの像 )

  ( マルクト広場の木組みの家々 )

    ( 大天使の彫像のある家 )

 あまり有名とは言えないこういうローカルな、しかし美しい町を見ることができて良かった。個人でここに来ようと思えば、鈍行列車と路線バスを乗り継がねばならない。

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ローマ時代の要衝の町トリーア >

 再び、紅山雪夫『ドイツものしり紀行』から

 「ベルンカステルからモーゼル川を遡ること60キロ、ルクセンブルグとの国境近くに位置しているトリーアは、ドイツ最古の都市の一つで、ローマ時代の大規模な建造物がいくつも残っているという点ではドイツ随一である」。

 旅行日程表には、この町に寄るとは書かれていなかったが、今夜の夕食はトリーアの町のレストランだそうだ。旅行社のデスクワークの企画というより、歴史を少しでも感じながら食事してもらおうという添乗員のG氏の配慮かもしれない。

 過去に参加したヨーロッパツアーの添乗員は、現地の地理・歴史や文化の話をするときも、本質から外れた断片的な挿話や伝説のたぐいの紹介でお茶を濁す人が多かった。知識が体系化されていないのだ。 

 今回のツアーの添乗員G氏は、訪ねる町の歴史や文化について書いた手書きのプリントを次々配って、簡単に説明を加えてくれる。つまり、自分が案内する対象を参加者に理解してもらおうと努力している。このような添乗員は初めてである。それに、この旅行の間、買い物をしたければどうぞ、という自由時間は設定したが、自分から特定の土産店に案内しても、購入を勧めるということもなかった。そして、そういうG氏のスタイルは、ツアー参加者に好感をもって迎えられているようだった。

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 日がとっぷり暮れて、トリーアの町に着いた。

 紅山雪夫氏によると、この町は、ボンやケルンなどライン川沿いにつくられたローマの軍団基地を後方で統括する町として築かれたそうだ。ライン川から100キロほど後方に下がった所に位置し、ライン川とはモーゼル川の水運によって結ばれていた。しかも、さらに後方にはメッスを経てリヨン、ランスを経てパリへと街道が走っている。

 そういうローマの要衝の町に、最初の司教座を設けたのはコンスタンティヌス大帝である。

 コンスタンティヌス大帝は313年にミラノ勅令を出し、キリスト教を含むすべての宗教の信仰の自由を認めた。だが、もともとパクスロマーナのもと、ローマは全ての神々を認め、信仰は自由で、互いの宗教をリスペクトしあっていた。そこに、他の宗教を決して認めないという不寛容な宗教が興った。それが絶対神を崇めるキリスト教である。当然、市民との間に軋轢が生じる。ローマ皇帝がキリスト教を弾圧したのは不幸なことであったが、ローマとその皇帝がもともと不寛容であったわけではないし、ローマの町に放火して楽しんだなどという皇帝ネロ像は、後世のキリスト教史観の捏造の産物である。

 コンスタンティヌス大帝がキリスト教を公認し、皇帝自らキリスト教に肩入れするようになってから、キリスト教は宮廷内にその勢力を拡大していく。そして、ついには、ローマ帝国の国教の地位を勝ち取り、皇帝権力と結びついて他宗教を徹底的に弾圧するようになる。その結果、ヨーロッパでは、近代啓蒙思想が興るまで千数百年間も信仰の自由のない時代が続いた。そのきっかけは、信仰の自由を謳ったミラノ勅令であった。

 話はトリーアの司教座に戻るが、9世紀の初め、神聖ローマ帝国皇帝となったカール大帝によって、司教座は大司教座に格上げされた。

 その後は、ケルン大司教と同じように、所領をもつ諸侯となり、やがて7選帝侯の一人に加えられた。

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 ローマ時代の城門、ポルタ・二グラ(黒い門)を通って、中心街へ入って行く。

    ( ポルタ・二グラ ) 

 ポルタ・二グラは、2世紀の後半に、トリーアの町を囲む城壁の北門として造られた。アルプスより北のローマ時代の遺跡としては、最も保存状態が良い建築物だそうだ。それ自体が城砦のようで、内外二重の門となっている。

 町のメイン通りを行くと、すぐにハウプトマルクト広場に出た。

 広場の真ん中には十字架の載る石柱がある。この広場で開かれる市(イチ)の監督権をもつのは大司教である、ということを示すそうだ。

    ( ハウプトマルクト広場 ) 

 ハウプトマルクト広場から東へ少し入った所に、トリーア大聖堂がある。11世紀のロマネスク様式の西正面が、広場の方に向いている。まるで要塞のようにイカツイ。

    ( トリーア大聖堂 )

 その大聖堂の南側に位置し、広場を囲む建物の上からのぞくのは、14世紀にゴシック様式で建てられた聖母教会である。  

     ( ゴシック様式の聖母教会 )

 この町には、ローマ時代の浴場や円形闘技場の遺跡、コンスタンティヌス大帝の宮殿なども残っているそうだ。私的には、こういう町をゆっくり見て回りたい

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 広場の一角のレストランでおそい食事を済ませ、そのあとまたバスに乗って、国境を越え、ルクセンブルグのホテルに着いた。すでに午後10時半だった。

 いくらバスツアーとはいえ、連日のおそいチェックインで疲れた。もう少し早くホテルに入りたい。もう若くはないのだ。  

 

 

 


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