(アルノ川とポンテ・ヴェッキオ橋の夕景)
※ これは、2010年の旅の記録です。
★ ★ ★
<フィレンツェの町の起こりとルネッサンス>
以下の歴史は例によって、紅山雪夫『イタリアものしり紀行』(新潮文庫)からの要約である。
トスカーナ州はイタリア中西部に位置し、アペニン山脈より西、アドリア海に臨む緑豊かな地方である。州都はフィレンツェ。アルノ川が、アペニン山脈に発し、フィレンツェを流れて、アドリア海に注いでいる。
遠い昔、アルノ川は沼地が多く、渡りにくかったらしい。だが、現在のフィレンツェのポンテ・ヴェッキオ橋(上の写真)のあたりだけ沼地がなく、川幅が狭まり、渡りやすかった。そのため、古くから交通の要衝となった。
初めは渡し舟だったろう。やがて、橋が架けられた。洪水のため、橋は何度も架け替えられたが、新しくなっても、ずっと「古い橋(ポンテ・ヴェッキオ)」と呼ばれてきた。
今、我々が見るポンテ・ヴェッキオは1333年の大洪水の後に架けられたものだ。橋には屋根があり、橋上の両側には貴金属店が並んでいるから、橋の真ん中あたりの店が途切れた箇所へ行くまでは、橋の上を歩いていると思えない。
遥かな昔、BC8世紀頃には、この地方には高度の文明をもつエトルリア人が住んでいた。BC3世紀になると、ローマが進出してくる。
BC59年、ユリウス・カエサルが軍団の退役兵士たちにこの土地を与え、植民させた。ローマ兵たちは百戦錬磨の兵士であっただけでなく、土木や建築の優秀な技術者でもあった。彼らは、当時のローマ軍の規格に則って、東西約400m、南北約300mの碁盤目状の町をつくった。
町の名は、花の女神フローラの町という意味で、フロレンティアと名づけられた。これがフィレンツェの名の起源である。
彼らはそれぞれ土地の女性たちと結婚して、土着した。今もフィレンツェの町の中心部に、碁盤目状の街並みが残っている。
その後、西ローマ帝国が滅亡し(476)、「蛮族」の侵入の時代となって、フィレンツェも一度は荒廃した。
しかし、世の中が落ち着いてきた11世紀、12世紀になると、地の利の良いフィレンツェは、商業や手工業、特に織物業などで躍進し、北部のミラノと張り合う中世自治都市を形成するようになった。
自他都市と言っても、内部の争いが絶えず、しばしばクーデターや血で血を洗う争いも起こった。銀行家のメディチ家、特にコジモ・デ・メディチ、その子のピエロ、孫のロレンツォの3代がフィレンツェの政治を巧みに治め、14世紀、この自治都市にヨーロッパ最初のルネッサンスが花開いた。
下の写真の左の塔はフィレンツェの政庁であったヴェッキオ宮(今は市庁舎)。写真の右には、ドゥオーモ (サンタ・マリア・デル・フィオーレ=花の聖マリア大聖堂) とジョットの鐘楼。鐘楼の左にのぞく赤い円蓋は、メディチ家の菩提寺でもあったサン・ロレンツォ教会である。
(フィレンツェの中心部)
フィレンツェのドゥオーモ(大聖堂)は、13世紀にゴシック様式で設計・着工された。本堂は白大理石に緑と赤の大理石が配されて美しい。本堂の奥行きは153mある。後にローマのサン・ピエトロ、ロンドンのセイント・ポール大聖堂に抜かれるまで、当時、最大のキリスト教の聖堂だった。
14世紀には、ジョットの設計で、本堂付属の鐘楼が完成された。鐘楼の高さは82m。414段の階段を上がれば、本堂も、フィレンツェの街並みも眺めることができる。
藤沢道郎『物語イタリアの歴史』(中公新書)から
「あとは円蓋を制作して取り付けるだけだったが、何しろ直径50mもの大円蓋を石材で作るのは大変な難事であり、それを地上100mの高さに取り付けるのは、当時の技術では不可能と信じられていた」。
だが、「ミラノが新しい大聖堂を無数の尖塔のそそり立つゴシック様式で建立するなら、フィレンツェ大聖堂の工事を再開し、反ミラノ・反ゴシックの象徴のような円蓋を取り付けて見せねばならぬ。それも、ミラノのように宮廷の御用美術家に任せるのでなく、市民の間から設計を募集し、市民の代表の審査によって建築家を選ぶのだ」。
こうして、1418年に開かれたコンクールでブルネレスキが選ばれて、1420年に工事が開始、1461年に完成する。「反ミラノ、反ゴシック」のクーポラは、ヨーロッパのルネッサンスの開花であった。
★
3月10日。ヴェネツィアは雪。フィレンツェは曇り、時々小雨。
雪のサンタ・ルチア駅を出発した特急列車は、いくつもの小さな駅の積雪のホームを通過し、山懐に入って積雪は深くなり、やがて長いトンネルを過ぎると、雪のない世界に一変した。ただ、大地は早春の冷たい雨に濡れていた。
フィレンツェの鉄道駅はサンタ・マリア・ノヴェッラ駅。ヨーロッパの駅のホームは低く、その分、列車の床面との段差が大きくて、スーツケースを降ろすのに力がいる。
スリがいるかも知れない駅前の雑踏を避け、予習していたとおりに地下道を通って「グランドホテル・バリオーニ」へ。
ホテルの前の小広場の向かいには、駅名になったサンタ・マリア・ノヴェッラ教会の壮麗なファーサードがそびえていた。
★
<花の聖母マリア大聖堂>
ホテルの部屋にスーツケースを置いて、早速、旧市街の中を南東の方向へ400mほども歩くと、ドゥオーモに出た。ルネッサンス発祥の都市、フィレンツェを象徴する大聖堂だ。
(ドゥオーモ)
フィレンツェの(大)司教座聖堂(ドゥオーモ)は、「サンタ・マリア・デル・フィオーレ」と呼ばれる。「花の聖母マリア」の意。
上の写真のファーサードが13世紀の本堂。歩く人間と比べると、大きさがわかる。左上に15世紀の赤いクーポラが少しのぞいている。
本堂の右にのぞくのは、14世紀のジョットの鐘楼。
右手前の建物はサン・ジョヴァンニ洗礼堂。サン・ジョバンニは洗礼者ヨハネのこと。
イタリアでは、本堂、鐘楼、洗礼堂の3つがセットになって大聖堂となる。
洗礼堂では、人々の頭越しにギベルディ作の扉の浮彫を見、壮大なドゥオーモに入ってウッチェルノ作の騎馬像を見た。
1996年にイタリア・ツアーに参加したときは、午後半日の自由時間にドゥオーモの約500段の階段を上がった。身をかがめなければならない窮屈な階段や、下りの人とすれ違わねばならない危うい個所もあり、思ったより大変だった。
だが、上りつめたクーポラの上からの眺めは、フィレンツェの赤い屋根の街並みが広がって、汗ばんだ顔に風が心地よかった。しかし、2日後、ローマで筋肉痛になった。
★
<政庁ヴェッキオ宮とウフィツィ美術館>
ドゥオーモから南へ400mほど、かつてローマの退役兵たちが造った道をアルノ川の方へ歩くと、フィレンツェの政治的中心となったシニョーリア広場に出る。
石畳の広々とした中世的な広場だ。中央に、コジモ1世の騎馬像。
(ヴェツキオ宮)
厳つい城塞のような建物は、14世紀初頭にゴシック様式で建てられたフィレンツェの政庁・ヴェッキオ宮。ヴェネツィアのドゥカーレ宮の瀟洒な建物とは全く対照的だ。
入り口の上には、ドナテッロ作の楯に前足をかけた獅子の像。建物の前には、ミケランジェロ作のダビデ像(コピー。本物はアカデミア美術館)が立つ。
時間は午後4時前。予約していないが、この時間帯ならウフィツィ美術館はあまり並ばずに入れるのではないか。そう思って行ってみると、すいっと切符を買って入ることができた。
前回、ツアーで訪ねたときは、美術館を1周するぐらいの大行列ができていて、しかもそのほとんどが日本人のツアー客。ペアや家族でやってきた欧米の観光客があきれて引き返していた。自分もその日本人ツアーの一人だったが、こんなことをしていたら日本人は嫌われるに違いないと思った。高度経済成長でにわかに豊かになった日本人が、旅行社のツアーに入ってヨーロッパに押しかけた時代だった。
ウフィツィ美術館の建物は、専制君主としてトスカーナ大公国を支配するようになったコジモ1世(1519~1574)が、公邸であるヴェッキオ宮の横に、メディチ家とフィレンツェ公国の事務を司る役所として建てさせた総合庁舎。ウフィツィとはオフィスの意らしい。
『地球の歩き方』のウィッツィ美術館の見どころに沿って、3階の45室の展示をさっと一巡した。ボッティチェリの「春」「ヴィーナス誕生」はやはり美しい。
(絵葉書から「ヴィーナス誕生」)
ポッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロらは、ブルネレスキやドナテッロらより若い世代。この世代を庇護したメディチ家の当主は、ゴジモ・デ・メディチの孫のロレンツォ・デ・メディチ(1440~1492)。ロレンツォ・イル・マニーフィコ=偉大なるロレンツォと呼ばれた。
昔、読んだ辻邦生『春の戴冠』は、ポッティチェリを主人公に、ダ・ヴィンチやロレンツォ、さらに修道士サヴォナローラが登場し、フィレンツェの「春」とその落日を描いた長編小説だった。サヴォナローラは、ルネッサンスを異教的・背徳的とし、「神の声を聞け!! 終わりの日は近い!!」と叫ぶ。「終わりの日は近い」 ── 終末論は形を変え、キリスト教からも離れて、しかし今もヨーロッパ人には根強い。
2度目の見学なので、ざっと鑑賞して、そのあと、美術館のカフェでグラスワインを飲んだ。窓からヴェッキオ宮の塔が間近に眺められた。
★
<ミケランジェロ広場からのフィレンツェの夕景>
ここまでは、前回のツアー旅行で一度見学していたフィレンツェ観光のお決まりコースだ。
今回の旅の目的の一つは、アルノ川の対岸の丘のミケランジェロ広場から眺めるフィレンツェの夕景・夜景の写真撮影である。こういう望みは、ツアーではなかなかかなえられない。
グラツィエ橋に出て、13番のバスでミケランジェロ広場へ。
広場のテラスから、眼下にアルノ川、そしてフィレンツェの街並みが一望できた。
日が暮れなづんでいくにつれ、しんしんと冷えてきた。ダウンコートでも冷気がしみる。何しろヴェネツィアは雪だった。寒さに耐えながらライトアップを待った。
治安が気になったが、広場に観光客はちらほらで、少ない。これでは、スリやかっぱらいも出動しないだろうと思うことにした。
(アルノ川とヴェッキオ橋)
(ドゥオーモ)
次々とライトが灯り、ルネッサンスの街が浮かび上がってくる。
上の写真の左がヴェッキオ宮、右がドゥオーモ。山並みの一部が白く見えるのは積雪だろう。
(ドゥオーモとサンタ・クローチェ教会)
上の写真のドゥオーモの右手前は、サンタ・クローチェ教会だ。
寒さに震えながら写真を撮った。
★
帰りは、逆方向に回るバスに乗る。バスに乗り鉄道駅へ向かったが、間違えて1つ手前で降車してしまった。ホテルは鉄道駅のそばだから、ここからそう遠くないはずだ。だが、東西南北がわからない。ほとんど日の暮れた街角の街灯の下でガイドブックのマップを見ていると、日本語で声をかけられた。さっきウイッツィ美術館で日本人観光客をガイドしていた中年の日本人女性だ。フィレンツェに住んで、ガイドをされているのだろう。私も同じ方角へ行くからと、駅まで一緒に歩いてくれた。助かった。方位磁石はめったに使わないが、いざというとき、必要になる。
駅前のスーパーで買い物をして、ホテルに帰った。