ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

「ヴェネツィアの海」へ……アドリア海紀行(1)

2015年11月08日 | 西欧旅行…アドリア海紀行

イビチャ・オシム氏へのインタビュー  2015年7月10日

 「今でも時々夢を見るんだ。健康を取り戻して、またベンチに座っている夢だ。 (夢の中で) 志半ばで断念した監督業を、もう一度やり直そうと意気込んでいる‥‥」

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  サッカー元日本代表監督は、今、故郷のサラエボにいる。サラエボは、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の首都である。

 日本人記者の質問に、彼らしい独特の含蓄ある言葉遣いで、現在の日本代表チームにエールを送り、評価し、また、忠告もする。上の引用は、そのインタビューの終わり近くに、ふと出た言葉である。

 功成り、名遂げたサッカー人生のように思える老将オシムの、インタビューの終わりに思わず出た言葉に、胸を打たれた。

 「見果てぬ夢」……。どんな賢者も、老いてなお、悟ったりはできないものだ。

(車窓風景: ボスニア・ヘルツェゴビナの山河)                             

    ( サラエボの街)

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 1990年代、旧ユーゴスラビアでは民族紛争が勃発し、すさまじい内戦になった。昨日までの隣人が敵となり、憎しみと銃弾と多くの涙。

 私が初めて研修視察旅行でドイツ、フランスを訪ねた1995年、ドイツやフランスの地方の小さな町でも、数家族ずつといった単位で、ユーゴスラビアからの難民家族を受け入れ、或いは、受け入れる準備をしていた。差別を感じさせてはいけない、温かく迎え入れよう、という気配りと緊張感が、市や学校の当局者に感じられた。私たちの歓迎レセプションで、フランス側の代表のスピーチの一部を今も記憶している。「日本の皆様、誤解しないでください。フランス人、というが、フランス人という人種はいません。ここにいる〇〇氏はユリウス・カエサルに似ているし、△△氏はポーランドの大統領ワレサ氏にそっくりだし(会場から笑い)、ミセス××はサッチャー首相を思わせる。ヨーロッパ人は交じりあって生きてきたのです」。

 この内戦によって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は崩壊し、6つの共和国と2つの自治州に分裂した。今回の旅行で垣間見たオシムの故郷、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国も、今はすっかり落ち着き、イスラム教徒とキリスト教徒が共存しているように見えた。

 イビチャ・オシムは、ユーゴスラビアの代表選手として、1964年の東京オリンピックに出場した。キャンプを張った町で、見知らぬ日本人のお婆さんから1個の梨をもらって、何という愛すべき人々だと、日本人が大好きになった。まだ日本も国際化にはほど遠かった時代で、しかも190センチの大男の外国人に親しく寄って来て、梨をくれたと言う。青年時代にもらったたった1個の梨のことが、74歳の今も、鮮明な記憶として残っている。

 やがて監督となり、ユーゴスラビア代表チームを率い、世界の強豪国へと羽ばたかせた。が、激しい内戦が勃発し、代表チームも解体してしまう。

  ( クロアチアで見た内戦時代の遺産 )

 時を経て、思い出の残る日本に呼ばれ、Jリーグの監督として手腕を発揮した。

 日本サッカー協会はその哲学者のような知性と実践に裏打ちされた深い洞察力と手腕に惚れ込み、全日本の監督を依頼した。が、残念なことにまもなく、病に倒れた。

 大学生時代、教授から数学の研究者になれと勧められた。プロのサッカー選手にならなければ、大学で数学教授をやっていただろうという。頭の良い人なのだろう。

 短い期間であったが、彼ぐらい深い洞察力をもって、日本サッカーの進むべき方向、その戦略と戦術を指し示した監督はいない。それは、ラグビー界のジョーンズヘッドコーチに匹敵すると言ってよいだろう。日本人らしい俊敏さと、90分間走り続けるタフネスさを土台とした、クレバーな「日本サッカー」を目指した。

 彼が病に倒れたあと、日本サッカー協会は、監督とその夫人に手厚く対し、礼を尽くした。

 ちなみに、現在のハリルホッジ日本代表監督もまた、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身者である。サッカー選手を引退して故郷で暮らしていたとき内戦が起こり、その渦中にあって多くの人々を助け、援助し、自身も無一文になり、かろうじて生き延びたという経験を持つ。

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 「紺碧のアドリア海感動紀行」という大手旅行社の主催するツアーに参加した。

 旧ユーゴスラビアから独立した6つの共和国のうちの3つ、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナを通るツアーである。旅の間、自ずから内戦時代のことも聞き、またその痕跡を目にすることもあったが、今は分裂の結果、それぞれがおさまるべき場所におさまったという感じで、落ち着いているように見えた。

 ところで、私の旅の目的は、民族紛争・内戦のことではない。

 その昔、10世紀の終わりごろから16、17世紀まで、アドリア海は「ヴェネツィアの海」であった。ヴェネツィアの商船や軍船が行き交ったアドリア海を自分の目で見たかったということである。海に文化遺産はなく、海は海に過ぎないのだが、そこには目に見えぬ物語がある。

 なぜヴェネツィアにこだわるのかと言えば、西欧史の中で、ヴェネツィアの歴史がいちばん好きだからである。

 イギリスやフランスやオーストリアなどのような王・貴族と農民という一方的な支配・被支配の関係によって成り立つ封建国家でもなく、フィレンツェのように一見、民主的に見えるが、市民同士の利己がぶつかり合い、絶えず政変・クーデターが起きる内紛の都市国家でもなく、ヴェネツィア800年の歴史には、市民精神(共同体精神)と、時代をタフに乗り切るリアリズム精神が貫ぬいているように思える。

 参考: 塩野七生の次の諸作品

 『海の都の物語上・中・下』(新潮文庫) / 『コンスタンティノープルの陥落』 『ロードス島攻防記』 『レパントの海戦』(以上、中公文庫) / 『緋色のヴェネツィア』 『銀色のフィレンツェ』 『黄金のローマ』(以上、朝日文芸文庫)

 個人旅行ではなく、ツアーに参加したのは、この地方は鉄道が発達しておらず、長距離バスでの移動には不安があったことと、シリアの難民問題による不測の事態を考えたからである。

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 日程は、次のようであった。

10月22日(木)  夜、ターキシュエアラインズで出発

10月23日(金) 早朝、イスタンブールで乗り継ぎ、午前、クロアチアの首都ザグレブに到着ザグレブ観光。その後、観光バスで、スロベニアの首都リュブリャナへ。(泊)

10月24日(土) ブレッド湖観光リュブリャナ観光。 (リュブリャナ泊)

10月25日(日) ボストイナ鍾乳洞観光。その後でクロアチアに戻り、プリトビチェ湖群国立公園へ。(泊)      

10月26日(月) プリトビチェ湖群国立公園観光。(プリトビチェ湖群国立公園泊)

10月27日(火)  でアドリア海に出て、途中、シベニク観光トロギール観光をして、スプリットへ。 (泊)  

10月28日(水) スプリット観光。その後、でドブロブニクへ。 (泊) 

10月29日(木) ドブロブニク観光。 (ドブロブニク泊) 

10月30日(金) で、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ空港へ向かう。途中モスタル観光サラエボ観光。その後、サラエボ空港からイスタンブールへ向かう

11月1日(土)   イスタンブールで乗り継ぎ、夕方、関空着。

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 ツアー名は「紺碧のアドリア海感動紀行」であるが、実際は、クロアチア共和国の内陸部や、スロベニア共和国の内陸部を観光し、最後はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国に入るから、アドリア海を見るのは3日間だけである。

 が、それでも、今、日本で大人気のアドリア海~クロアチア~スロベニアを巡る数あるツアーの中で、日程にゆとりがあり、ドブロブニクにも2泊する、ベターな行程のツアーを選んだ。

 とにかく、年を取って、日程ぎゅうぎゅう、朝早くから夜遅くまで、観光バスに乗り続け、あわただしく見て回る「駆け足観光」は、御免である。 

 

 

 

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