( 岩山とチェファルーの町 )
シチリア観光の第1日目午前は、チェファルー。
チェファルーは、州都パレルモから東へ66キロ。美しいビーチがあり、漁港もあって、魚が美味しく、今はリゾートとしても人気があるそうだ。
( チェファルーの町と大聖堂 )
BC1500年ごろにイタリア半島からやってきた、シクリ人という先住民がいたらしい。シチリア各地に住み着いたが、ティレニア海に臨むこのチェファルーの、岩山の上にも城塞の町を築いた。これがこの小さな町の起源という。気の遠くなるような遥かな過去だ。
「文明の十字路」とは、異民族の衝突の場であったということ。ヨーロッパはどこもそうだが、特にシチリア島を巡っていると、海に臨む急峻な岩山の上の町をよく見かける。岩山の上に町を築かなければ、安心できなかった。
さて、小さな港町チェファルーは、BC394年に、シチリア島最強の都市国家のシラクサ軍によって征服され、ギリシャ人の町になった。
以後、ローマ、ビザンチン、イスラムの時代を経て、AD1130年代、ノルマンのルッジェーロⅡ世がこの町の戦略的価値に目を付け、岩山の上に住んでいた人々を地上に下ろして、今あるような町づくりをし、周囲に堅固な城塞を築いた。
ルッジェーロⅡ世は、南イタリア及びシチリアに進出してきたノルマン人の第2世代で、伯父と父の両方の地位と領土を受け継ぎ、1130年にノルマン・シチリア王国の初代の王となったシチリアの英雄である。
彼は、町づくりとともに、岩山の麓に大聖堂(司教座)を建設した。パレルモから66キロしか離れていないこの町にもう一つの大聖堂を造ったのは、パレルモ大司教の影響を嫌ったからである。世俗の権力と宗教権威とは、たえず衝突する。
彼はこの大聖堂を王家の霊廟にしたかったのだが、パレルモの大司教の反対にあって実現しなかった。
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( チェファルーの大聖堂の正面 )
観光バスを降りて、チェファルーの町を歩いているうちに、雨になった。
海からの雨に服が濡れた。だが、小さな街なので、すぐに大聖堂に着く。
大聖堂の建物はロマネスク様式で、当然、後のゴシック様式の大伽藍などと比べると遥かに小さく、かつ、素朴である。野の花の香りがする。
ただ、ここはシチリアである。アーチの形などにイスラム建築の影響が色濃く出ており、腕利きのアラブ系の建築職人が工事に参加したことがうかがわれる。
堂内に入ると三廊式の身廊の、いちばん奥の内陣部が金色のモザイク画で飾られて、そこだけが明るく輝いているように見える。ノルマン・ビザンチン式モザイク画の最高傑作の一つとされる。
( 3廊式の身廊部 )
この絵は、カソリックのものではない。ビザンチン様式の絵画である。
(内陣部のモザイク画)
キリストの下には、天使たち。その下に十二使徒の像が描かれている。
( 天使と12使徒 )
モザイク画は古代ローマ時代からあり、この旅でも、第3日目に行くピアッツァアルメリーナのカザーレ荘でローマ時代のモザイク画を見るが、その技法はビザンチン文明に受け継がれた。
西ローマ帝国滅亡後、イタリア半島もシチリア島も、一時、ゲルマン諸族によって席巻されるが、のち、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスによって解放、統治される。故に、シチリアでは、ギリシャ語が公用語となり、ギリシャ正教の教会が建てられ、ビザンチン文明が花開いた。
その後、この地を支配したイスラム教徒はイスラムへの改宗を強要せず(信仰の自由を認めたわけではない。コーランでは人民から徴税をしてはならないことになっている。キリスト教徒は人民のうちには入らない。キリスト教徒でいてくれたら、徴税できるというわけ)、さらにそのあとこの地を支配したローマカソリック教徒であるノルマン人も異文化を尊重したから、ビザンチン文明を代表する黄金のモザイク画が、カソリック教会に燦然と輝くことになったのである。
モザイク画の素材には、色石、色ガラス、貝殻、釉をかけた陶片などが用いられた。
聖堂のモザイク画に欠かせない金色は、無色のガラスの間に金箔を挟んだもので、当時にあって、金箔は言うまでもなく、ガラスも高価なものであった。
しかし、絵と違って、モザイク画はいつまでも退色することがなく、破損することも少ない。剥落しても、修理は容易だ。色つやが悪くなっても、埃を拭えば、また綺麗になる。
モザイク画に描かれた宗教画にも、特色がある。
イスラム教では偶像崇拝は厳しく否定されたから、建築物(例えば、アルハンブラ宮殿)の中に、聖人像は言うまでもなく、動物の形なども描かれることはない。
( アルハンブラ宮殿の装飾 )
ギリシャ正教でも偶像禁止の考えがあり、聖像を立体的に描くことを認めず、平面的に描いた像しか認めなかった。
平面的なビザンチン様式の絵は、なかなかいい。
西欧では、ルネッサンスを経て、遠近法や、人間の肉体の解剖学的研究が行われ、これ以上ないと思える立体的なリアリズムの絵が描かれるようになったが、近代になって、セザンヌもゴッホもマチスも、ピカソも、絵を形と色の二次元の芸術に戻した。
絵は、形と色の芸術である。( 続く )