ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅の始まり … 地中海の文明の十字路となった島・シチリア島への旅2

2014年08月13日 | 西欧旅行…シチリアへの旅

  [ シチリア・ワインのこと ]

 シチリアでワインを買って帰った。「マルサーラ」。

 ワインのことには無知だが、安かった。

 安いということは、シチリア・ワインは、あまり有名でない (ブランドでない) ということだろうか? 

 マルサーラとは、シチリア島の西海岸にある小さな町のことだ。ガリバルディ率いる千人隊(赤シャツ隊)が上陸した町として、歴史に残る。つまり、今あるイタリアという統一国家は、シチリアのこの小さな町から、その第一歩が始まったと言っていい。日本の明治維新と、時間的に大差はない。

 だが、今、この町は、「香り高いワインの産地」となっている。

   『地球の歩き方…南イタリアとマルタ』に、「酒精強化ワインのマルサーラMarsalaも、ぜひ味わいたいもの。醸造の途中に、ブドウから造られたアルコールや糖分を添加してアルコール度数を上げ、土地の木樽で熟成させた。辛口セッコSeccoは食前酒」とある。

 辛口が良いと、マルサーラのセッコを1本買って、帰国後、食前酒として、夕方になると氷で割って飲んだ。ブランデーに似て、甘みが濃く、美味しい。度数は18度。

 たちまち1本、飲んでしまったので、インターネットで 「マルサーラ / セッコ」で調べたら、あった。さすが日本には、何でもある。少々、お高くなるが、取り寄せて、飲んでいる。

      ( パレルモのホテルの窓から )

     ★   ★   ★

 [ なぜシチリアへ? ]

 なぜシチリアに行ってみようと思ったのか?

 確かに、さまざまな民族がやって来て、衝突した、文明の十字路の島である。

 しかし、だからと言って、シチリアがヨーロッパの歴史の主役であったことは、ない。

 外交的にも、政治的にも、文化的にも、ローカルである。教皇様のいらっしゃるイタリア半島の、長靴のつま先の、その先にある島に過ぎない。

 自然の景観もそう。

 ナイヤガラのような空前絶後の滝があるわけでもないし、草原をライオンやカンガルーが闊歩しているわけでもない。都会も、高原も、田園も、瀟洒でロマンチックな西ヨーロッパの中で、いささか「草深い島」という印象は免れない。

 なんでわざわざ行く気になったのでしょうと、自分でも思う。

 だが、きっかけは、ある。

 塩野七生 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯上・下』 (新潮社) を読み始めていた。

 皇帝フリードリッヒⅡ世については、以前、藤沢道郎 『物語 イタリアの歴史』 (中公新書)の中の 「第四話 皇帝フェデリーコの物語」を読んで、感動した。これはすごい人だと、思った。

 だから、塩野七生がそのエッセイのなかで何度か、「私はもう一人、書きたい人がいる」と書いているのを読んで、フリードリッヒⅡ世に違いないと確信していた。

 その本が出版され、読み始めていた。

 

 シチリアの歴史の中で、この人物だけは、ローカルとは言えない。

 シチリア生まれ、シチリア育ちであるが、何しろ父からは神聖ローマ帝国皇帝、母からはノルマン・シチリア王国国王の地位を受け継いだ。在位は1210年から1250年。十字軍の時代である。   

 神聖ローマ帝国皇帝としてドイツ諸侯を統治したが、その56年の生涯のうち、ドイツにいたのは8年だけであった。寒い北方の風土を好まず、母から受け継いだ果実実る南イタリアとシチリアをこよなく愛した。

 イタリア流に言うと、フェデリーコ二世。

 だが、シチリアを訪問しても、皇帝フェデリーコの「事績」を示す文化遺産が、目に見える形で残っているわけではない。彼は君主であって、芸術家ではないのだから。

 しかし、少年のころのフェデリーコが、飽くことなく歩いたというパレルモの町は、その当時とは違うにしても、面影は残っているはずだ。

 フェデリーコは4歳のときに父、相次いで母を病気で喪い、以後、全てを自分の器量で切り開いていかなければいけない境遇となる。誰かが、皇帝位や王位を金庫にしまって、時来たらば、これがお父上、お母上のかたみです、と言って出してくれるわけではない。

 彼の家庭教師は、おそろしく頭が良く、早熟で、歴史、哲学、神学、天文学、数学、植物学などに強い好奇心をもつこの少年に驚き、このような少年が、将来、この国の君主になることに大きな希望を抱いた。そして、最低限の勉強時間以外の勉強について、賢明にも、本人の自由に委ねた。

 フェデリーコは毎日のように王宮を出て、パレルモの町を歩き回り、パレルモの町の人々から学んだ。

 カソリックの絶対的な権威が支配していた当時の西ヨーロッパ社会では考えられないことだが、ノルマン時代のパレルモでは信教の自由があり、イスラム教徒が医者や教師や商人や国王の兵士として生活していたし、イスラムの前の時代を支配していたビザンチン文化も色濃く残り、ギリシャ正教の教会もあった。しかも、カソリックの総本山、ローマは目と鼻の先にあり、今、この島を支配しているのは北方ゲルマン系のノルマン人であった。

 この時代のパレルモは、多民族・多文化が共存する国際的な雰囲気をもった都市であったのだ。 

 フェデリーコ少年は、そのような街の中で話される各種の言語を自分で吸収していった。言語は文化の核をなす。

 当時の知識人の言語であるラテン語、庶民の言語であるイタリア語のほか、哲学や文学を学ぶのに必要なギリシャ語、聖書のヘブライ語、さらにはイスラム教のアラビア語まで、読み・書きの両方ができる言語だけでも7か国語、あったという。

 このような「精神世界」に生きるフェデリーコのような時代に先んじた開明的な人が、成人したあかつきに、神の権威を振りかざし十字軍を叫ぶ教皇や教会勢力、中世的な既得権益勢力と激突しないはずがない……。

 実際、彼は第5次十字軍を率いてエルサレムに遠征した。そして、あざやかに、即ち、一滴の血も流さずに、エルサレムを奪還してみせた。ただし、イスラム教徒の権利も認めた。時の皇帝と、時のスルタンは、がっちりと握手したのである。21世紀にもできないことを、あざやかにやってのけた。傑出した2人がいてできたことだが、十字軍から帰ってきた皇帝・フェデリーコは、教皇を先頭とするキリスト教世界から総攻撃される。イスラムの血を一滴も流さずに帰ってくるとは何事だ!!  

  …… フェデリーコのパレルモは、今はない。しかし、今のシチリア島の風土に触れ、パレルモに残された文化遺産を目にすれば、本に書いてあるフェデリーコのことが、さらに生き生きとわかるのではなかろうか。

 よし、行ってみよう‼

 これがシチリア旅行の動機である。

 (パレルモの王宮…今はシチリア議会)

      ★   ★   ★

 [ ツアーに参加する ]

 シチリアに行ってみようと決めて、まずは一番便利な飛行機はオランダ航空と見当をつけ、次に、順次、見学しながら島を1周するプランを立てていて、行きづまった。

 「足」が不便なのだ。列車、長距離バス、タクシーが「足」で、一番頼りになるのはバスなのだが、例えばA→B→Cと見学し、その日はCで泊まりたい。ところが、AとB、AとCはバスで接続しているが、BとCはつながっていないのだ。方法は、Aに連泊して、Aから出ている一日現地ツアーのバスで、A→B→C→Aと回るしかない。

 あれこれ考えて、うまくいかず、それなら、最初からツアーに参加しよう … ということになった。

 いつもではないが、できるだけツアーに入らず、自力で旅をしてきた。

 なぜ、自力で行くかと言えば、ツアーでは、観光バスの中は「日本」だからである。 添乗員に案内されて街を歩いている、そのグループの「中」は、「日本」である。 ちょうど、南紀白浜のアドベンチャーワールドのライオンやシマウマを、安全な車の窓から見ているのと同じだ。

 しかも、日本の添乗員は、「お客様は神様です」と、客を大切にしてくれるから、下手すると、国内の温泉旅行と同じ気分になる。実際、昔、参加したツアーで、そういう気分で添乗員に苦情を言う客がいた。おっちゃん、おばちゃんだけではない。大学生のお嬢さんたちまでが、国内温泉旅行の気分で文句を言ったりする。パスポートだけが頼り、「主権」を持たない外国旅行という緊張感がまるでない。

 「個」になり、緊張して、ピーンと神経が張りつめたとき、初めて、鋭敏になった心に、異国の風景や人々の心、異国の空気が、鋭く感じられるようになってくる。

 しかし、今回はツアーにした。

 ツアーに決めた途端に、ほっとして、気が楽になった。たまにはいいだろう。                                                              (続く)

 

  

 

 

 

 

 

            

 

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