< 短 歌 >
いつもこのブログを読んでくださっている皆様には、1か月以上のご無沙汰をしてしまいました。
その間に、平成は令和になり、さらに季節も移って、もう梅雨に …… 。
がんばって、今から再開します。
今回は、恒例の、「『読売俳壇、歌壇』から」です。この間に「読売俳壇・歌壇」に掲載された作品の中から、私が心ひかれた俳句と短歌を紹介いたします。
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最初の短歌は、「読売歌壇」からではなく、同紙の日曜日に掲載される奈良県版の俳句、短歌、川柳を載せた「大和よみうり文芸」からいただきました。
〇 清(スガ)すがしく新緑映ゆるこのあした
佳き気配満ちて「令和」はじまる
( 三郷/藤本京子さん )
※ 「令和」という元号は、多くの国民に好感をもって受け入れられました。喜ばしい限りです。
儒教的徳目や儒教的政治思想を意味としてもたず、この国の早春の季節感を表す言葉が選ばれました。そういう選定の仕方も、本当に良かったと思います。
( 鎌倉の白梅 )
日本では、「真」や「善」を追究するよりも、どちらかといえば、「美」を大切にしてきた伝統があります。正しい生き方よりも、美しい生き方を求めてきた民族です。
「正しい」という言葉には、絶えずうさん臭さがつきまといます。「正しい」は、絶対的なものです。しかるに、「絶対」は、この世に存在しません。
それに引き換え、美は相対的なもので、美しさは多様です。春には春の美しさがあり、冬には冬の美があります。
日本は四季の変化に富み、それぞれの季節にそれぞれの趣があって、万葉、古今の時代から人々は季節感の中に美を見出してきました。和歌も俳句も、そのような風土に根ざして生まれた文芸です。
そういう文芸の伝統の中から、新しい元号が誕生したのです。
「新緑映ゆるこのあした 佳き気配満ちて『令和』はじまる」 … 「賀の歌」ですね。「佳き気配満ちて」という表現が、お正月のように清々しく、心改まる気持ちです。
さて、令和に生まれてくる子もいれば、平成から令和を生き、さらにその先の時代にも活躍する世代もあるでしょう。私は、どう考えても、令和を越えることはありません。
そういう私の今の願いは、この国が、できたら美しい国として、…… いざとなれば美しくなくてもいいから、「存続」しつづけてほしいということです。
私たちの国の国土は、1万年も続いた縄文文化の範囲とほぼ一致するそうです。
遠い過去から継承してきたこの美しい島国を、将来においても、しっかり存続させてほしい。それが、新しい時代を迎えての私の祈りです。
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次は、若者を詠んだ歌です。
〇 がらがらの電車のドアの脇に立つ
そんな若者だったわたしも
(狭山市/奥薗道昭さん)
※ 座席はたくさん空いているのに、一人ドアの脇に立っているのは、10代の後半から20歳前後の若者でしょう。実景であり、「わたしも」と、作者は遠い日の自分の姿を重ね合わせています。
人を求めながら、人の中に入れない。傷つきやすく、孤独な、しかし、ちょっと反抗的で斜交い(ハスカイ)から世を見ている若者です。
私も、また、遠い遠い昔、そんな時代がありました。「若者たち」という歌が流行りました。
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次の2つの短歌は、これまた、「大和よみうり文芸」掲載の、しかも同じ作者の作品です。もちろん、新聞に載った日は違います。「大和よみうり文芸」の常連の方だと思います。
〇 紀伊山地 群れ立つ山の一山に
我は生まれし 父母(チチハハ)の郷(サト)
(御杖/川北泰徳さん )
※ 作者のお名前の前の「御杖(ミツエ)」は、奈良県の宇陀郡御杖村です。
歌の初めの「紀伊山地」は、三重県、奈良県、和歌山県にまたがって、紀伊半島の脊梁を成し、畿内では、古来より、最も山深いところとされてきました。記紀の時代から神々の里であり、九州から東征してきたイハレビコの一行は、この奥深い山と谷を抜けて大和に到りました。山岳仏教のふるさとであり、神仏混交の霊場であり、今はユネスコ文化遺産の地になっています。
( 熊野那智大社の別宮飛龍神社 )
話は少し横道にそれますが、もう25年も前のこと、初めて秋色に染まるヨーロッパを旅したとき、こんな文章を書いています。
「ドイツやフランスの自動車道をバスで走破しながら、ひたすら異国の景色に見とれた。
ドイツは森の国である。アウトバーンは森の中を通っている。シラカバなどの落葉樹が黄色、きみどり色、茶色になり、森の地面は落ち葉で深々とおおわれていた。それが小雨に煙る景色はすばらしい。一つの森が尽きると、目の覚めるような緑の牧草地や黒っぽい耕作地が広がり、赤い屋根と白壁と出窓が印象的な村があり、やがてまた、森に入る。都会に住むドイツ人は、休暇には森に行き、キノコ狩りをして過ごす。高校生たちは長期休暇になると、ワンダーフォーゲルの漂泊の旅に出る。ゴルフ場は造られず、ディズニーランドもできなかった。彼らは森の民である。
フランスは大地の国だ。なだらかな丘陵もあるが、緑の牧草地や黒っぽい耕作地は地平まで続き、その中を、うっそうとした並木に縁どられた道路がどこまでも延びる。農家の家は石造りで、古色蒼然としている。日本では夕日は隣村との境をなす山の向こうに沈み、フランスでは畑の果ての地平に沈む。地平線に、夕日を背にしたカテドラルの塔とそれをとりまくような村落のシルエットを望むことができる」。
初めてヨーロッパの風土に対面した旅の感動が表れている文章ですが、何度もヨーロッパに行くうちに、午後、パリとか、フランクフルトとか、アムステルダムから帰国の飛行機に乗って、日は西へ、飛行機は東へ飛んで、時間より早く日没となり、広大なシベリアの大地の上を延々と飛んで、早朝、東の空に朝焼けが見えたとき、あの向こうに私の国がある、本当に日のいづる国なのだと実感しました。そして、日本海はあっという間に越え、日本の上空にさしかかったとき、上空から見ると山また山です。その山々は、イベリア半島やバルカン半島の裸の山々とは違い、樹木に覆われています。山と山の間の無数の谷筋からは、霧が湧き出ていることもあります。そういう光景を見るにつけ、日本列島は、一つ一つの谷に神話や伝承や祭りをもつ「神々の国」なのだと納得しました。無数の谷筋はやがて集まって川となり、下っていくと、もうその先は海、というところでやっと都会が現れます。
仮に都会に生まれたとしても、わが母なる国である日本列島は「山また山の国」であり、神々の国です。
〇 子どもゐぬ故に泳がぬ鯉のぼり
山里の空はかくも青きに
( 御杖/川北泰徳さん )
※ 今、都会も少子化ですが、山里は過疎が言われるようになって久しい。若い人々は都会に出て行ってしまい、山里に子どもはいない。長い時代を経て根づいてきた伝統も産業も民俗も、その灯が消えようとしています。
「山里の空はかくも青きに」…… 山と山の間の真っ青な空が空虚です。
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違った角度から、都会の青空を詠んだ歌をもう一首。
〇 ビルとビルの間の空がきれいだったと
胴上げされし駅伝選手
( 土浦市/大竹淳子さん )
※ 選者の小池光さんの評を紹介します。
「アンカーの選手がみなに胴上げされて、その感想をインタビューで聞かれてこう答えた。なかなか気の利いたセリフ。名言といっていいくらい」。(拍手)
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今の日本で、子どもは宝です。子どもを詠んだ短歌、俳句をいくつか紹介します。
〇 着ぶくれて散歩しをれば 半袖に
短パンの園児が手を振りてくる
( 五条/竹本光治さん )
※ これも「大和よみうり文芸」からいただきました。
あまりに対照的で、いささか気恥ずかしい気持ち。
私も「着ぶくれ」の年齢です。それにしても、子どもたちがいると、街も、気持ちも、明るくにぎやかになります。
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< 俳 句 >
上の歌に続いて、子どもを素材にした句3句。川柳ではありませんが、とても可笑しい。俳句には、川柳より面白い句があります。「俳句」とは、その名のとおり、本来、そういう文芸だったのでしょう。元禄の芭蕉や明治の子規が真面目過ぎたのかもしれません。
〇 昼寝覚め 大人ら何か食べており
( 東京都/徳山麻希子さん )
※ 3~4⃣歳ぐらいの子どもでしょうか。子どもの目線でユーモラスに作句しています。
季語は「昼寝」で、季節は夏ですから、食べていたのは西瓜かもしれません。季語の約束事があることによって、解釈鑑賞もより具体的になります。
「よく寝てたから、起こさなかったのよ。きみの西瓜はここにちゃんとある。泣くんじゃない」。
〇 おならして笑ふ赤子や うららなる
( 東京都/杉中元敏さん )
※ 「笑ふ赤子や」の「や」は切れ字。「うららなる」は春の季語。「うららかな春の日和」が、「おならして笑ふ赤子」と明るく溶け合って、それにしても、可笑しい。
これは、女の赤ちゃんですね。(私の推量です)。
赤子が笑ったのは、おならして気持ちが良かったのか、それとも、赤ちゃんなりに、自分でも可笑しいと感じたのか。意外に、後者かも。言葉はわからなくても、可笑しいことは、わかるんだ。
季節感を含めて、私は傑作だと思います。
〇 二つ目はおなかの子へと柏餅
( 宮城県/梶原京子さん )
ママになる女性は食欲旺盛。2つ目の柏餅はお腹の赤ちゃんのためと、周りにも、自分にも、言い訳しています。周りは、この際、寛容です。
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「旅果てぬ」…… いい言葉です。次の句は、「旅心」を誘う句、或いは、「春愁」の句。今回とりあげた作品の中でも、一番心ひかれる作品です。
( 龍飛崎 )
〇 蜂飼いの花追ひ越して旅果てぬ
( 東京都/戸井田英之 )
※ 選者の正木ゆう子さんの評を紹介します。
「花を追って北上する養蜂家の旅が実際に花を追い越して終わるのなら、この句は完璧。しかしそうでなくても、詩的表現だとしても、暫し味わっていたい一句の世界である」。
毎週、讀賣新聞のこの欄を拝読していて、正木ゆう子さんの選んだ俳句に共感することが多い自分に気づきました。寄せられた多くの句の中から、正木さんが選んだ句に心ひかれるのか。或いは、正木さんのところに投稿されてくる句に、私が心ひかれる句が多いのか。…… 同じことかもしれませんが。
〇 九十六才 日向ぼっこに日が暮れぬ
( 秩父市/山口富江さん )
※ ほっこりとぬくもりを感じる好きな句ですが、平凡といえば平凡な句ともいえます。でも、次の正木ゆう子さんの評を読んで、胸をうたれました。
「常連の冨江さん。自筆のこの投句葉書を枕元に置いて亡くなったという。『令和を四十七分生きました』とご家族の添え書きがある」。
美しい人生です(涙)。
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〇 旅果てて 家の明るさ柿若葉
( 川越市/横山由紀子さん )
※ 5月12日にギリシャのアテネとロードス島を訪ねる旅に出て、同月の21日に帰ってきました。しばらくブログに手がつかなかったのは、その旅と、旅の疲れがあったからです。
西欧旅行も、これが最後になるかもしれないと思いつつ、出かけた旅でした。
帰宅すると、この句のように柿の葉が緑で、毎年庭に咲く名も知らぬ野の花が、今年もいっぱい花を開いて迎えてくれました。
( 野の花 )
次回から、「エーゲ海の旅」を連載します。たぶん、ぼちぼちと書き進めていきます。どうか写真だけでも、見てください。
(ロードス島の満月)
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