“しらせアーカイブ”は、
今までの記述を有効に使用する場です。
できるだけ、面白いものをチョイスしたつもりです。
しらせアーカイブ・1
『60歳の観測~この奇妙な人生時間~』
これは、2007年の春に書かれています。
次のような解説も書かれています。
「60歳代を、「この奇妙な人生時間」と捉えて、
サラリーマンを経験された人に多い感覚であろうと
思うのですが、
60歳からの数年の不可思議な感覚・気分を
観察します。」
■ 60歳、この奇妙な人生時間/①
わたしは既に61歳と10ヶ月近く経ってしまっているのだが、
このタイトルに使った物言いが結構、気に入っている。
「60歳、この奇妙な人生年齢」もあるかなと思ったけれども、
ちょっと暗いかなということでこうなった。
わりと大きい組織にいたものだから、スパッと定年になる時構えていた。
その組織の枠がなくなると不安感といったものがうわっと襲ってくるのでは
ないかと構えてしまっていたのである。
昔、海水浴場で砂遊びをしていて穴を掘り、手で砂をかき上げた時は
一瞬水がなくなるのだが、すぐ水が戻ってしまう。あんな感じだ。
不安なのか、なんだか知らないものが押し寄せてくるのではないかと
今、思うと過剰なほど身構えていたのである。
なにをしたか。遊びのグループをまずつくった。ゴルフのグループだったり、
飲み会のグループだったり、町歩きをするグループだったり、と。
一斉につくったのではなく、前後して意識してそうした。
これは仲間、友人の確保なのだが、友人ってこういうものなのか疑問もある。
外堀はそういうことで、本丸の自立が必要だ。これが最重要課題なのだが、
+
不安なのか、なにかは押し寄せてきたのか。
答えは「NO」である。
いたたまれないような、自分をコントロールできないような何かは
どうもいなかったようだ。
それどころか、奇妙な空間感があって、それは自由な感覚に近く思われた。
少し遅い午前の電車に乗った時、働いている人と働いていない人と
自分はどう違うのか、それをどう感じるのか、不安があったのだが、
そういう価値とは違うことが怖くはなく、軽い気分でいた。
このあたりのことにこだわり過ぎているのだろうか。
おそらく、受けとめている自分の中をどうしたのかがもっとも重要な
問題になるのだろう。
(つづきます)
■ 60歳、この奇妙な人生時間/②
50歳前後でカラダの変調を感じた。
50歳後半で明らかな変調をいくつか受け入れた。
なのだが、
なんでも出来るように思っているし、かなりのことが今、出来ている。
「老人」という言葉が好きになれないが、そういう「高齢」なヒトになって
きたという感覚もほとんどない。
唐突に年齢がわからなくなっていた。
年齢が消失した、という方が近いように思う。
もう、わたしは隠居生活よ、などと言って煙に巻く手もある。
これはやっかいな相手をうまいこと取り込んでしまっているようにも見える。
でも、このあたりではまだまだリアル感がない。
やっぱり、もてあそんでいるレベルなんだな。
宙ぶらりん、というか。
ニュートラルということなのか。
+
街で、このおじさんは放浪しているなと思うことがある。
ま、そうは言っても確認していないのだから、
わたしの勝手な思い込みだが。
散歩だったり、写真の取材だったり、街歩きだったり、
友人と会うための往路だったりするのかも知れないが、
なんだか、匂うのだ。
単に道に迷っているのか、目的がなくフラフラしている
のか、健康のためのジョギングなのか、も知れないのだが、
このおじさんは、人生の今のこの時間を間違いなく“放浪”
していると思えるのだ。
幼児や、子供や、若いサラリーマンや、おばさんや、疲れた
サラリーマンには、そういった表情はない。
今のわたしが間違いなくそう感じるのだ。
60歳から始まった感覚である。
変な話しになってしまった。
(つづきます)