映画「永遠の0(ゼロ)」(山貴監督)がきのう・21日公開されました。
興行収入見込み60億円の好スタートで、今年の公開実写作ではダントツ
であったそう。
原作の百田尚樹さんは「(試写から見るのは)7回目です!山貴監督
は日本一!」と大絶賛されたと。
わたくしの感激は、戦後68年にしてようやっと日本人が真っ向からあの
戦争を(零戦を)描いたということです。
山貴監督は49歳、昭和39年生まれです。主役たちはさらに、お若い。
NHKでも、零戦を搭乗者の視点からドキュメントしておりました。
しかし、
“零戦”、その搭乗員のことをわたくしとても触れることはできません。
ということで、飛行機のお話しをいたします。
お好きな方はどうぞ。
これが“グラマンF6Fヘルキャット”です。
零戦対策として開発対応されたと聞いていましたが、そうではなかったという
のです。
F6Fは、一般的に零戦に対抗するために急遽開発された機体であるように紹介される事があるが、
開発時期からいっても、元々F4Uコルセアの開発が失敗した場合の保険的な開発であった事からも、
これは誤りである。これも上述のように、機体設計からして零戦とは正反対の性格の機体である。
アメリカ海軍の本命は1940年に初飛行したF4Uであったが、実際には開発時期が遅い
F6Fが艦上戦闘機の主力となった。
これが“F4Uコルセア”です。
角度のある低主翼がカッコイイ。美形ですよね。
グラマンの愛称“ヘルキャット”は、直訳すると「地獄の猫」であるが、「性悪女」
「意地の悪い女」という意味がある。
のだそうです。
癖がなく未熟なパイロットにも扱いやすい操縦性と、生残率を高めるパイロット背面の
堅牢な装甲板、自動防漏タンクなどの装備に加え、良好な運動性能があり、格闘戦を得意とする
日本の戦闘機を撃破するには最適の機体で、折畳み式の主翼を備え一隻の航空母艦に多数が
搭載可能であったこともあって大戦中盤以降、機動部隊の主力戦闘機として活躍し、
日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機となった。
無難で堅実な設計が、期せずして対日本機に最適の性能を発揮する事になったのである。
弱点は2,000馬力級の戦闘機としては低速だった事であるが、それでも零戦や隼など、
日本の1,000馬力級戦闘機よりは優速であり、必要にして十分であった。
限られた出力の発動機で最大限の性能を発揮するため極力まで軽量化された零戦に対し、
大出力の発動機を得て余裕のある設計がなされたF6Fは全く正反対の性格の戦闘機であり、
日米の戦闘機設計に対する思想の差を象徴しているとも言える。
F6Fは大柄ながら2,000馬力級のエンジンを搭載していたため、軽量ゆえに海面上昇率に優れる
零戦と比較して、ほぼ同じ海面上昇率であった。また、ズーム上昇は急降下で速度を稼げる
F6Fの方が零戦よりも優れていた。さらに、急降下性能、武装、防弾性能、横転性能、旋回性能も、
時速400km以下の速度域以外では零戦より優れていた。
あの零戦の凋落が始まった。
一撃離脱戦法に徹することの多いP-38やF4U、P-47などに比べ、横転が素早くある程度格闘戦も
こなしてみせたF6Fを「もっとも嫌な相手」に挙げる日本軍搭乗員は多い。
坂井三郎は、零戦でF6Fと戦った体験を「ここまで零戦の旋回に付いて来られる奴は今までなかった」
「他の奴ならとっくに撃墜している」と回想している。
1944年6月の硫黄島における第三〇一海軍航空隊との戦いでは、経験を積んで自信をつけたためか、
積極的に格闘戦を挑むF6Fの姿が目撃されている。
また、零戦とF6Fが1対1の格闘戦を行い、双方弾薬を射ち尽くして引き分けた事例もある。
このパワフルだが、ずんぐりとした機体をパイロットたちは嫌ったのだろうか。
零戦などに対抗した倍の出力エンジンである。
日本も零戦などの後継機を開発するのだが、間に合わない。
国力の差は歴然であった。
前述の通りF4Uの「保険機」であったため、太平洋戦争終盤になってF4Uが艦載機として
配備されるようになると徐々に第一線からは引き揚げられ、第二次大戦が終結すると急速に退役した。
終戦の報を受け、搭載していたF6Fを海に投棄して帰投した護衛空母もいたことが
当時の搭乗員のインタビューとして記録されている。
戦後は後述のF6F-5Kが朝鮮戦争で実戦使用されたのみである。
海に投棄されたF6Fとは、あまりにクール過ぎるし、ドラスティック過ぎる。
“ヘルキャット”(「性悪女」「意地の悪い女」)は嫌われてしまったのか。
「日本の航空兵力殲滅に最も貢献した戦闘機・グラマンF6Fヘルキャット」は
あっという間に通り過ぎてしまったのか。
初飛行:1942年6月26日
生産数:12,275機
生産開始:1942年
退役:1954年(USN)
零式艦上戦闘機のデータは
初飛行:1939年(昭和14年)4月
生産数:10,430機
運用開始:1940年(昭和15年)7月
退役:1945年(昭和20年)8月
生産数を見ていただきたい。
この差にはあ然としてしまいました。