映画「the basis of sex」(邦題「ビリーブ 未来への大逆転」を観た。
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シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「第二の性」を読んだことのある人なら「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という有名な言葉をご記憶だと思う。性徴としての人間の雌が「かくあらねばならぬ」というパラダイムによって「女」にされていく過程をいみじくも言い表している。
ボーヴォワールは実存主義をフランスに広めたジャン・ポール・サルトルの生涯の伴侶であった。サルトルは人間はアンガージュマンという選択の自由を常に持っている実存であると説いた。しかしボーヴォワールは、女は共同体のパラダイムによって選択の範囲を狭められ、そのため様々な可能性の芽を摘まれ、生き方を限定され、結果的に多くの不利益を被っていることを指摘した。
「第二の性」が出版されたのは第二次大戦後の1949年。そこからさらに長い戦いが待っていた。本作品では、sexという単語と、genderという単語の両方が登場する。第一次性徴としてのsexに対して、genderはボーヴォワールの「女になる」という意味合いでの性を示している。
本作品は、虐げられてきた女性の立場を法律面から解放し、女性の権利を取り戻そうと闘う女性法律家の話で、法廷闘争のドラマであるが、法律の専門的な理屈があまり登場せず、素人にもわかりやすい筋立てとなっている。
そもそも法律が何のために作られたのかについては、共同体が成立した歴史を習った人間なら皆知っていると思う。狩猟採集の移住生活から始まり、やがて定住して牧畜や栽培に移行すると、作業協力や治水などでリーダーシップをとる者が現れる。最初はシャーマンなどの直感的なリーダーだったのかもしれない。しかしその後はリーダーが固定化し、世襲を繰り返すようになった。そして規則を定めて共同体内部を締め付ける。それが法律である。リーダーの目的は今も昔も共同体の維持と自分の地位を守ることだ。古今東西、あらゆる法はその目的に即して作られている。
法が民衆の自由と平等のためでなければならないと決められたのは、市民革命以後のことである。日本でも戦後の憲法によって民主的な法体系の根本が決められた。それ以前は民衆のためではなく天皇と国のための法だった。
アメリカ独立戦争後に起草された合衆国憲法には「人民とその子孫の自由の恩恵を守ることを目的として、合衆国のために憲法を制定する」と書かれている。この文章は人民の自由のためと、アメリカ合衆国のためという二重の目的の文章となっていて、アメリカ社会が愛国心と個人主義の間で引き裂かれ続けている原因のひとつであるような印象を受ける。
社会科の復習みたいだが、三権分立の原則により、裁判所は法律が違憲でないかを審査する権利を持っている。しかし裁判所は滅多に違憲の判断をしない。それに本来は国権の最高機関であるはずの国会は内閣の法案の自動承認機関になっている。行政のやりたい放題である。アメリカも日本も同じだ。
しかしアメリカは、弱体化しているとはいえマスコミがまだ第4の権力として事実を報道し、国民に判断材料を提供しているだけまだマシだ。日本のマスコミは完全に政府官邸の応援団となっていて、翼賛報道を繰り返し、大本営発表を垂れ流す。利権まみれのオリンピックに反対する気骨のあるジャーナリストはもはや日本には存在しないのだ。ギンズバーグのような戦い続ける法律家がいるアメリカが、ある意味羨ましくもある。
役者陣は総じて好演。特に夫役のアーミー・ハマーが秀逸。控えめに妻を支える夫の遠慮がちな立ち位置を上手に表現していた。主人公を演じたフェリシティ・ジョーンズはいまひとつ知的さに欠ける部分があったが、意志の強さを眼差しに浮かべる演技は評価できると思う。
原題の「The basis of sex」に対して邦題はいただけない。法廷ドラマらしく「性別の根拠」といった直訳的なタイトルにしたほうがよかった。大逆転した未来は、未だに訪れていないのだ。