熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。
耳を澄ますと
もうセミの声は聞けなくなり
薄暗くなってくると
鈴虫の声がきこえてきます。
道端にクマゼミが死んでいました。
ハタラキを終えて
次の命を託して尽きたのでしょう。
そっと土に返しました。
9月15日は「仲秋の名月」
生憎、
月に叢雲(むらくも)です。
やはり雲が厚く、
美しい姿は拝めませんでした。
世の中は
「月に叢雲、花に風」で
なかなか思うようにはいきません。
仲秋の名月、
ススキを飾り、だんごをお供え
というところですが、
わが家には叢雲を吹き飛ばすような
元気な花が活けられました。
家内が活けて、
見るのは私しかいないのですが
心行くまで眺めています。
下の方にはフォックスフェイスも
入っています。
右からの姿も
また違った変化があって
面白い装いです。
上から見るとまた
違った花が見えてきます。
一つの生け花といっても
たくさんの花の構成で
美しさを醸し出しているのです。
ピンクはピンクで良し
紫はムラサキで
緑は緑と
それぞれの持ち味で
共演しているようです。
「人見るもよし、人見ざるもよし
我は咲くなり」
という武者小路さんの言葉が
浮かんできます。
「エバンゲリオン」
名前だけは聞いたことがある。
日本のアニメのようです。
見たこともないのですが、
「evangelium」
という言葉を知りました。
「福音」と訳すようです。
アニメの世界ではどういう意味で
エバンゲリオンということを
どういう意味で使われてるか
わかりませんが、
福音ということも
英語では good news と
なんと単純な、
「良き知らせ」ということです。
また、ゴスペルということも
同じ意味のようで、
God Spell
つまり神からの良き便り
ということでしょう。
日本語の「福音」ということは
実にうまい訳だと思います。
神さまからの幸福の音信
ということになるのでしょう。
エバンゲリオンも
ギリシャ語のeuaggelion
からきているということで、
euという「良き」と、
aggelionの「知らせ」
という成り立ちのようです。
今読んでいる「十地経講義」の
中でこの「エバンゲリオン」が
出てきたのです。
安田先生という方
仏教を話されるのに
ありとあらゆる方面から
いろいろのことを駆使して
説明していかれます。
菩薩の精神というものに目覚めれば
あらゆる人類が、
キリストの意義を持つのではないか
と、
キリストが人類の苦を背負って
十字架に磔にあわれた
人間の苦を代って
代受苦として受け止める
仏教でも私たちの生きる世界を
「娑婆」といいます。
サハーというインドの言葉で
訳すれば「忍土」となります。
この世の中は苦しい
その苦しい世界に堪え忍んで生きる
だから娑婆といったのです。
忍ことがなければならぬのが
人間世界ということです。
しかし、この「忍」も
ただ我慢するということではなく
言編のついた忍→認ということで
認識ということです。
苦しい世界も認識がなければ
我慢できない、
智慧がないと、
「もはやこれまで」と
赤穂浪士のような刃傷沙汰に
なってしまいます。
キリストの十字架を背負う
ということも、
深い認識に立った代受苦という
あえて人類の苦を受けて立つ
そでなければ、
生きれないのが娑婆という
人間世界ということでしょう。
物事を成し遂げるということは
ある面では「十字架を背負う」
全責任は自分にあり
という覚悟がなければ
何事もできないのではないかと
エバンゲリオンということが
えらい方向になってしまいました。
子どもの頃から、
なぜだかわからないのですが
建物に興味がありました。
よくお寺の屋根に上がり、
屋根のつながりの不思議な構造、
そういうものに接していたから??
惹かれたりしたのでしょうか。
東寺にいる時も、
大学の先生とか案内するうちに
その建物の構造とかを
耳学問で、
五重塔のあの高さまでどうやって
資材を運んだのか、
柱を一本立てるにしても
クレーンもない時代
どうやって立てたのか
興味津々で耳をそばだてていました。
東寺は建物も国宝が多く
ありとあらゆる建て方の種類があり
それだけでもじっくり見ると
飽きないものがあります。
「水の宇宙船」と名付けられた
この建物、
上から見ると、
屋根の上には水が張ってあります。
言われてみると、なるほど
水の宇宙船が地上に着陸したような
姿をしています。
周りは高い建物に囲まれ
緑の空き地があるその空間に
降り立ったというイメージでしょうか??
下から見上げると、
青い色した4本の大きな柱に
支えられています。
長さ100メーター、幅30メーター
この巨大なある種池ということです
そしてその底がガラスで出来ている
これを支えるということでも
大変な技術ではないかと、
水が張ってあるので
断熱効果もあるのでしょう
下にいると太陽の熱はさえぎって
くれているようです。
屋根の上にも上がることができ
水辺の畔をお散歩できるという
まあ、空中散歩が楽しめる
傍から見る分には楽しい建築物
しかし、コストとメンテナンスの
ことを考えると、…
大変ではないかと、
その下には複合の商業施設もあり
水の宇宙船の下に人々が集う
そういうシンボル的な建物であれば
それなりに大きな働きをしている
のではないかと思います。
その横には高く聳える
テレビ塔もあり、緑の空間もあり
交通の拠点にもなっているようで
街の活性化には大きな役割を
担っているようです。
こういう大きな建物を見たあと
車に乗り、ふと隣を見ると
わんちゃんが運転席に
わき目もふらず、一生懸命前を見て
走っている気分にでも
なっている様子でしたよ。
私なりには、
熊本があのような地震に遭い
あの丈夫なお城でさえ
もろくも壊れる
そういうことを考えると
やはり、
安全で人々を守ってくれるような
そういう建物が望ましいように思います。
秀吉が作った伏見城も
もろくも地震で倒壊しています。
これからは、安心安全という言葉を
キーワードに
それがそのまま美しい姿に
デザインされればいうことない
のではないかと思います。
素晴らしい歌声に酔いしれました。
後ろのバックは襖(ふすま)
そうです、お寺でのジャズです。
ご住職の粋な計らいで
素晴らしい演奏会です。
片山恵依子さんの歌声が響き渡ります。
聞きなれた曲ばかりで
ふと、昔のことを思い出したり
知っている曲に口ずさんだり
途中休憩をはさんで
20曲余り
休憩にはサンドイッチとケーキ
それに美味しいコーヒーと、
ご住職の言葉に
分かるとか分からないとかではなく
身をゆだねて楽しんでください、
と
場所もいいし、歌声も素晴らしい
口の方もおいしくいただき
外にでると、
ちょっと前までは美しく咲いていた
ハスの花も散り、台(うてな)が
風情ある姿を見せていました。
咲いてもよし散ってもよし
枯れてもまた美しい
ハスの花は魅力ある花です。
となりのアジサイも花を落とし
青々とした葉をつけています。
しかし、普通のアジサイとも違うようですが
アジサイも枯れ始めている頃
このような姿なのに
元気にいいアジサイの葉に
ちょっと興味が出て
しばし眺めていました。
ジャズといっても幅広いようで
戦後では
笠置シズコさんが歌った
「東京ブキウギ」が最初のようです。
この曲も鈴木大拙氏のご子息
鈴木勝(アラン)さんが作詞された
ということも、
お寺とジャズなんだか
ご縁がるようで不思議な思いです。
それにしても、
片山恵依子さんの歌唱力
そして英語の発音も正確で
とても気持ちよく聞くことができました。
素晴らしい企画のご住職に
感謝です
最近の若い方は
上手に言葉を略していくものです。
日本人はそういう才能があるのかも
しれません。
昔ですと、
インドの言葉を上手に略して
自分の言葉としました。
五重塔とかいう「塔」という言葉も
スツーパを卒塔婆と音写して
それが塔「婆」となり「塔」と
いうように普通の言葉にして
しまったのです。
「カミッテル」ということも
最初聞いたときにはなんのことやら
まったくわかりませんでした。
どうも、
聞いていくうちに
超人的なはたらきをする
そういう意味で使うようで、
「神懸かっている」
ということがもとの言葉のようです。
それを略して、
「神ってる」というように…
人間業ではないということでしょう。
「スーパースター」というところを
日本語にして「神ってる」とは
よく言ったものです。
本当に感心させられます。
野球の方でも使われているようで
流行語大賞になりそうな
予感さえしてきます。
神懸かり的なということは
昔からの
課題だったのかもしれません。
西洋の方では、
ニーチェという方が
「超人」ウーバーメンシュということを
いわれています。
仏教でいう、菩薩というあり方も
そういうものかもしれません。
人間は人間を超えたものでなければ
人間を明らかにすることはできない
といわれています。
人間で人間を解明できない。
仏を拝むといっても
自分を超えた存在から自分を
見直しているのでしょう。
しかも、
その自分を超えた存在というのは
外にあるのではなく、
自分の中に内包している
ということなのです。
仏という外なる存在、他を
拝むのではなく、
内なる自己の中に孕んでいる
自分の中の超越的存在に対して
謙虚に頭を下げるのです。
今の、現代という問題
その行き詰まりは
人間の人知で解決しようとする
そこに問題があるのかもしれません。
人間は人間では解決できない。
自分の中にある「神ってる」存在
そういうもの気付かなければ
ちょっとやそっといいプレイができた
というようなものではありません。
人間の尊厳性とか厳粛性という
ようなことが言われるのも
自分の中に仏という自分を越えた
存在を内在しているからです。
一人一人は誰にも代ることの
出来ない存在である。
そこに人間の生きる厳粛性が
あるし、
それはとりもなおさず、
自分には自分の責任があるという
その責任は誰とも代れない
絶対的といわれる、
自分が生きるという
厳粛性があるのでしょう。
だから、
そういう生き方が尊厳性ということを
見出してくると思います。
神ってる、
まあ、いい言葉だと思いますが
人間誰しも
自分の中にある
「神ってる」ものを
見出すか如何にかかっている
のではないでしょうか??
『札の辻』という地名は
全国いたる所にもあるようです。
その町の入り口とかに
掟とか決まりを記した札「高札」
を立てたのがその由来のようです。
今いるところ、
地図の南北が反対ですが
下に東寺が見えます。
だから、ちょうど当時の南にいる
ということです。
察するに、
南から京都の入ってくるその入り口
に高札(こうさつ)を立てたので
その名が付いたのかもしれません。
堀川通りを上がっていくと
札の辻の交差点に、
「秦診療所」が目印です。
正確には「ちん診療所」と読みます。
秦の始皇帝の場合は「しん」と読み
太秦は「うずまさ」と読み
映画村のあるあたり、広隆寺付近
いろいろ読み方もあるようです。
また京都は全国でも
辻辻のお地蔵さまは一番多い
ということです。
8月24日は「地蔵盆」
夏休み最後のイベントです。
一年に一回、きれいにお化粧されて
お地蔵さまも美しく変身です。
なんだか気になります。
芙蓉の木が一本、
誰かが植えたのか?
どこからともなく種が飛んできて
根付いたのか?
一輪といえども美しい花を
咲かせています。
殺風景な自転車除けも
ちょっとした工夫で鳩さんを並べると
楽しくなるものです。
そのせいでしょうか、
みなさん鳩を撫でていかれるようで
鳩はピカピカに光っています。
本当の鳩もやって来て
木陰で涼んでいるのでしょう。
今では懐かしい「定食屋さん」
学生時分はよくお世話になりました。
定食専門店も珍しいのでは??
ここにもお地蔵さまが、
お釈迦さまが涅槃に入られ
次の仏「弥勒菩薩」が出現されるまで
56億7千万年
その間この世は無仏の時代になります。
弥勒仏が現れるまでの間、
辻辻に立って私たちを導いてくれるのが
お地蔵さまのお役目です。
札の辻通りは「サルスベリ」の街路樹
が並んでいます。
なかなか珍しいのでは、
ピンクや紫、真っ赤と色とりどり
やはり、
夏の花はサルスベリです。
青空に向かって咲く花は
暑い夏には元気をもらいます。
ひと汗かいたところで
公園がったので一休み!
先客の同年代か??
家にいるのも暑いので
公園の風にあたりに来られたのか
それとはなく話だし、
「安倍さんは…、小池さんは…」
となかなか立派な持論を展開される
一見浮浪者風??
でもなかなか侮れない
そんななか
ちょっと元気のない鳩さんが
ベンチの下の木陰で涼を求めて
痩せているようす、
病気なのかもしれない、
公園は、
いろいろな人達、生き物たちにも
ちょっとした安らぎを与えてくれる。
お散歩の〆は
政治談議で締めくくりです。
短い時間ながら
楽しい一時を過ごしました。
体操の「白井健三選手」
リオのオリンピック、団体で金
個人では跳馬で新技を決めて
銅メダル、
日本へ帰ってきても一服もしない
早速練習、
「これが到達点ではない
出発点が見えた、
これからが楽しみ」
というような
コメントを残されていました。
金メダルといえば普通は到達点
しかし、ここが出発点だと
いいですね
十地経でも最初の地は
「初歓喜地」
初めて喜びを見つけた、と
何が歓喜なのか?
それは初めて
自分のエゴを克服することができた
ということです。
体操競技も一見すると
個人競技のようにも思えます。
洛南高校の体操を
育て上げてた「辻野朝晟監督」
口癖は団体で優勝しなければ
ということでした。
エゴといっても個人関心ではなく
今まで自分しか見えてなかった
その自分が他という
衆生関心が出てきた
ということです。
個人関心に生きとった自分が
初めて衆生関心に目が向いた
自己関心を克服することができた
つまり自分のエゴを克服する
ことができた、
それが喜びなんです。
経典では、
「無始以来」
無始よりこのかた、と
無始ということは時間的な
ということではなく、
人間誰しも持っているもの
誰かにあって誰かにない
というものではなく
エゴは誰でも持っている
あいつはエゴが強いとか
いいますけど、
人間は皆エゴなんだということで
「無始以来」
という表現をとるのです。
初めて自分のエゴに勝った
エゴイズムを克服することができた
そのことが歓喜なのです。
その喜びによって
道を歩むことができる。
白井選手も
オリンピックで金メダル
という喜びよりも
辛い練習によって自分を克服できた
その喜びが
次に向かっての歩みを生み出し
日本へか帰ってくると
もうすぐに練習に取り組む
という姿勢なのでしょう。
到達点が出発点
たぶんそういう考え方なのでしょう。
いいですね!
まるで、仏道修行のようです。
仏道修行も
到達点へ向かって歩むのではなく
到達点から修行が始まるのです。
迷いは始めがなくて終りがある
悟りは始めがあって終りがない
といいます。
無始よりこのかた迷っていたことは
終りはあるが
悟ったという瞬間から修行が
終りのない修行が始まるのです。
悟りを到達点と考えていることを
迷いというのでしょう。
身体でもって、身をもって
実践されている方の言葉は
真理にかなっているものです。
白井選手更なる精進努力を!!
荘厳仏具としてお寺の内陣の
正面とかご本尊さまの前に
花輪のような金色の飾りを
見ることがあります。
その仏具を「華鬘」といいます。
華鬘の「鬘」(まん)という字は
「つる」というような意味があります。
たぶん、今ではハワイの「レイ」
みたいなものでしょう。
タイとかの仏教国に行くと
色とりどりの生花を糸に通して
道行く人に売っています。
華鬘とは本来は
そういう形だったのでしょう。
日本に入って来て
それが金属になったり
木製で作られたり、
珍しいものでは『牛皮』でつくられ
国宝になっているものもあります。
今日の花、華鬘ではないのですが、
曼荼羅の図の中に出てくる花が
頭の中に浮かんだのです。
花瓶の中にこんもりと盛られた花
そのような花の塊に見えました。
左からの姿です。
リンゴもあったりでおもしろい!
右側に見えるのは
花籠の取っ手のようでもあり、
その細工もよくできています。
足下を固めるのは
カエルさんです。
仏さまにお供えする荘厳花が
生け花の基本です。
しかし、もっと前の仏画に出てくる
お花は丸くもられた形が
圧倒的に多いようです。
花にも二つの意味があって
私たちから見れば
仏さまにお花をお供えする
という一面と、
仏さまからいうと
私はお花のような慈悲の
ハタラキを持っています。
という面があります。
たまに、
仏さまにお供えするのだから
綺麗な方を仏さまに見せなければ
という方がいらっしゃいますが、
仏の慈悲を表現する
ということですから、
私たちに美しい方を見せて
お供えするのが正しいのです。
まだまだ暑いので
お花も持ちませんが
枯れていく短い命であればこそ
なおさら美しいのでしょう。
よくこの前の通りは通っていたのに
ついぞお邪魔したことのない
『相国寺』
ちょうど御所の北側、
同志社大学の中を通って
中に入る感じです。
大学の頃はこの前を通って
通っていたのです。
入ってみるととても大きい
本堂にあたる「法堂」(ハットウ)です
そして事務所
ここが相国寺の事務所、中枢です。
相国寺の塔頭寺院(たっちゅう)に
金閣寺・銀閣寺があるのです。
そこを通り
この参道の突き当りが
「承天閣美術館」
ここのお寺の正式名称が
「万年山相国承天禅寺」といい
そこから名付けられたのでしょう。
中に入ると、
釈迦三尊を中心に
両脇に「動植綵絵図」三十幅が
掛けられています。
まあ、今は知ったうえで見るので
なんとも思わないでしょうが
その当時としては、
釈迦三尊の両脇に
色艶やかな動物たちの画
なんとも異様な感じではなかった
のではないでしょうか。
究極の仏画だといわれています。
「山川草木 悉皆成仏」
生きとし生けるものすべて
無情といわれる山や川までも
成仏している。
そのことをこの仏画の作者
「伊藤若冲」は表現した
ということです。
若冲は錦小路の青物問屋の
長男として生まれ、
商いより絵が好きだったそうです。
身近にいる鶏を飼い、
餌には不自由しなかったので
野菜の残り物をやっては
じっと観察する、
そしてそれを画にする、という
少し変わり者として
扱われていたようです。
こうやって描かれた当時そのままに
展示されるのは
めったにないことのようです。
境内も美しいし、お堂も立派な作り
ぜひ足を運ばれては…
また、常設展では
金閣寺、銀閣寺の襖絵が
見ることができます。
金閣、銀閣へ行っても建物だけ
ここの相国寺で内部を
見ることができる
なんだか得した気分でした。
ちょっとした空間に
古い石塔と石を配した石庭
そして、
ここから見る「十牛」を表した庭
のんびりできる時間、
「動植綵絵」の名の通り、
絵画だけではなく、
自然の緑を見るのもいいものです。
心豊かに外にでると
ちょっと前に雨が降ったのでしょう
芙蓉の花が色鮮やかに
咲き誇っていました。
日曜日に放送された「情熱大陸」
熊本の竜之介動物病院、徳田医師が
取り上げられていました。
一日の時間を惜しむかのように
動物の救済のため奔走されている
ペットといえど一つの命
人権があって動物には
その命の権利はないのか
一つでも命を助けたい
そのためには私(わたくし)は
なくていい、
家庭と仕事は両立しませんよ!
とまで言い切っておられた。
相国寺・承天美術館へ
伊藤若冲の『動植綵絵』
(どうしょくさいえ)
全33幅が展示されている。
釈迦三尊はこの寺の寺宝
動植物が描かれた30幅はコピー
所蔵は宮内省にある
でも本物と寸分たがわず
圧巻である。
釈迦三尊を囲むように
なぜこの動植物が描かれたのか
「山川草木悉皆成仏」ということがある
「一切衆生悉有仏性」ともいう
すべての生きとし生けるものには
仏性があるということで
ありとあらゆる生き物には
仏の命があるのだ
ということで、描かれたのか
仏だけが仏でない
仏は身近にいる命ではないか
という意味合いがあるのでしょうか
動物たちは自分自身では
自分の命を知ることはできない
しかし、
動物たちは訴えている
自分の命の意味を知ってほしいと
すべての命に仏性有り
というのだから、
動物に代りその意味を見いだすのは
私たち人間の務めではないか
徳田医師の働きぶりを見ていると
出来るからやる、
できないならしない、
というのではない
出来るできないを越えて
やるしかない
そういう願いで動いておられる
経典には「無量」とか「無相」という
言葉がよく出てくる
それは願いに立って働けば
無量にならざるを得ない
無相にならざるを得ない
ということでしょう。
私が偉くて無量であり無相なのではない
ほかの命から求められているから
無量の命、無相の命から
求められているから
無量になり無相にならざるを
得ないのである。
だから、無量ということは
一切衆生を包むため、
自分のために無量なんじゃない、
無量の衆生とともに
というところに
無量の行ということが
あるのでしょう。
徳田医師の働き
そのような言葉とダブって
私の目には映りました。