正月は色々のスポーツの
決勝戦があるようです
インタビューで
「試合を楽しみたいと
思います」 とか
勝てば勝ったで
「両親に感謝したいと
思います」
ということをよく聞きます
「楽しむ」より
この勝負に勝ちたい、と
いうことを言えないのか
と思うのですが
控えめに
「楽しみたい」と
いうのでしょう。
よく考えると
たのしむという字は
願うという
意味を持っていますので
心の底には
勝つという願いを秘めた
「楽しむ」
ということなのでしょう。
『十地経講義』も
繰り返すように
前の講義で終わったところの
「楽無作行」
ということが出てきます。
「楽無作行」
楽という字は愛着する、
着するという意味に
なっています。
無作の行に着して
それを願うという。
その愛着するということが
一つの障りになるわけです。
無作の行という意味は
空という字で表してもよい。
般若ということが
無作ということで表されとる
無相といっても
いいかも知れませんね。
空・無相・無願ということが
言われておりました。
というように講義は
始まります。
空・無相・無願
ということですが
三解脱門といわれるように
また、三空観門・三空門とも
いわれます。
解脱へ入る門戸、または
その方法となる
三種類の禅定(三昧)です。
空解脱門というのは
人と法との空なることを
観ずること、で
無相解脱門は
差別シャベツの相を離れる
ということです。
差別ということは
他と比べて差別する
ことではなく
すべての存在は一つとして
同じものはなく
すべてが違っている
ということです。
金子みすずさんの言葉に
「みんなちがって
みんないい」
ということがありますが
ぴったり当てはまる言葉だと
思います。
最後に、無願門解脱門
は願い求める思いを捨てる
ということです。
講義では
解脱門が略され単に
空・無相・無願として
でてきます
空・無相・無願というのは
勝れた世界ですから
それを愛着してですね、
そこに停滞する。
どんな立派なものでも
それを愛着するとですね、
汚れてしまうわけでしょう。
というよに続きます。
妙なもので
自分のものと思ってしまうと
何かしら、愛着するのです
「わがものと おもえば
かるし傘の雪」
という句がありましたが
傘に降り積もった雪でも
自分のもの
と思ってしまうと
軽く感じてしまう
ということです。
いよいよ断捨離も佳境に入り
おおものがなくなりました
さいわい、親しい方が
使っていただける
ということで、
こちらの気分も大分楽に
なったのですが
いざ、積み込まれて
お別れとなると
妙に愛着信が湧いてくる
ものです。
つくづく
人間の愛着信の強さに
驚かされます。
人も法も
ここでいう法は
法律の法ではなく
一切のものという意味です
ですから、人に愛着し
ものに愛着する。
それが、空であると
人も物もすべて
いろいろの条件によって
成り立っていると
だから執着するものはない
ということで
空というのでしょう。
おれのもの!
ということは
ある面では
いいことのようですが
おれが、おれが
といいだすと
やはり汚れてくるものです。
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