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本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

一子地(いっしじ)

2021-12-24 20:17:09 | 十地経

「一子地」

こういう言葉もあるのですね

辞書には

「すべての衆生を子のように

憐れむ菩薩の地位」

とあります。

 

講義の中では、

「『涅槃経』に

出とるんですけど、仏子地

仏子地というのは、

仏子というのは、この場合

釈迦牟尼仏の一人息子、

羅喉羅(ラゴラ)という。

仏陀の一人息子や。

一切衆生を一子の如く

愛するというものです、

一子地。

その一子地というのが、

慈悲喜捨、大悲 …

四無量心のことを一子地

というんです。

その地に立つというんだね。

つまり、言い換えると

親のところにおって

子どもを憐れんどる

というのじゃない。

憐れまれとる子ども自身の

立場になるという。

 

一切の人類を自分の外にみて

それに大悲心を起こしとる

というようなもんなら、

慈善みたいなもんです。」

 

これは、

なかなか為れないのですが

とくに男には

子どもを、

子ども自身の立場に

立つということは

親がいて子どもがいると

二つになってしまうのです

どうしても外に見てしまい

高いところから低いところ

親から子を見る

というように上から目線で

見てしまいがちです。

 

その話の展開が

さらに進むのですが、

このことは親子に限らず

私たちと仏という関係

仏を信じるということは

どういうことなのか

神のように絶対者として

信じるのかという

問題が出てきます。

 

「信心というと、

信心はこれは衆生の心です。

衆生が如来を信ずる心が、

信心だけれども。

実はそれが親の心だと。

自分を子として自覚するのが

実は親だと、それが。

親というものは

どこにおるかというと、

我々が子が子供が

子どもに目覚めたところに

親があるんだと。

子と親と

二つあるんじゃない。

 

子そのものとなる

というのが親の心だと。

こういう具合に、それは、

平等やわね。

そういうことを

信心という意味で、

信心というものは

我々に起こるけど、

如来の心。

如来を信じるという心は

如来から賜った心や。

 

信心ということは

如来我にありという

ことなんだ、

信心ということは。

如来を向こうにおいて

信じるというのは

それは疑う心なんです、

かえってね。

如来ここにありというのが

信心という意味だ。」

 

大変な問題が出てきます

普通は

仏様がいて

(それを向こうにおいて)

信じるという

仏と私という二つなんですが

そして、

厳密に考えないと

いけないのが

私が信心を起こした

だから信心は私のものと

考えてしまいます

そうではなく

信心は私に起きたけど

それは如来から賜った心

そういう区別を

はっきりしておかないと

信心という心が

間違ってしまいます。

 

如来我にあり

といっても

私が如来だと言ってしまうと

これまた間違ってしまいます

信心、信仰といっても

よくよく考えないと

大きな誤解を起こし

「自分が仏だと」

いう人も出てきます。

 

そこに、

「満と分」という

私たちは如来の一部分を

証した、ということで

全部(満)を証したのが仏で

凡夫だけれども

仏の一部分を証したという

菩薩ということが

凡夫であって凡夫でない

そういう存在が出てくると

思います。

 

なかなか難しい問題です

こういうところを

明かにしていくのが

『十地経』ということが

目指しているところだと

思うのです。

 

 

 

 

 

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