憩う、楽しむ 広島・湯来通信 

広島市中心部から1時間。新たな交流・体験エリアである湯来地区の最新情報。天然温泉と豊かな自然が皆様をお待ちしています。

2012年02月23日 07時17分13秒 | 民話
2/23(木)3℃

 おはようございます。

 風邪薬と頭痛薬が手放せないここ数日ですけど、皆さんは大丈夫ですか?偶にはヒットするような話題を振り撒こうと情報収集をしてるんですけど、中々これといったモノがなく、いつの間にか週末・月末になってしまいました。

 今年のNHK大河ドラマで「清盛」が放送されていますけど、広島市内で関わりのある人物がいないかと調べてみました。
 
 湯来町は「旧佐伯郡」に属していましたので、「佐伯(さえき)」に絞ってネット検索したら「佐伯景弘」なる人物がいらっしゃいました。

 原文そのままですが、

 『佐伯 景弘(さえき かげひろ、生没年不詳)は、平安時代末期・鎌倉時代初期の厳島神社の神主。

平清盛に接近し、その家人として活躍する。長寛2年(1164年)、景弘が史料に初見される時には、既に清盛と密接な関係にあった。景弘は、衰微していた厳島神社の興隆を目的に、早くから清盛に接近していたという。さらにこの年、清盛は安芸守に任命されており、それが契機となって両者の関係はより緊密となった。清盛の厳島神社への信仰は厚く、積極的な支援を行い社殿の修繕に寄与した。

景弘は社の郷司、地頭となって神宮の経営に関与し、清盛から平氏姓を名乗ることを許され、平氏の軍勢に従軍、源氏との戦いでは一貫して平氏を支持した。平家方:寿永4年/源氏方:元暦2年、文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡したが、景弘は新たに台頭した源頼朝に接近し、その後も神主の役職にあった。文治4年(1188年)には頼朝に命ぜられて壇ノ浦で安徳天皇と共に海中に沈んだ宝剣の捜索を行った。 』
 とありました。
 景弘の登場は大河ドラマ第16話。お楽しみに。


 私の勤務地には、平清盛の娘「天女姫」が、当時では不治の病と恐れられていた天然痘にかかり、わずか14歳の生涯を終え、亡骸を葬り、近くに神社を建てて祀ったとされる伝説の伝わる場所があります。先日、この神社を見に行ってきましたが、神社の名前は『疱瘡(ほうそう)神社』と言うんですけど、神社の一角に社名入りの石柱が地元の方々の寄進によって建てられ、その上の手毬を見ていたら、気持ちはタイムスリップしたかのような錯覚をしてしまいました。
 私の義祖母方の親戚の家に立ち寄った際に、ショーケースの中に沢山の手作りの毬が飾ってあるのを思い出し、昔の遊びを正しく教えてくれる方って居ないのかなーって。
 最近になって、ホンモノを追求することが多くなって、昔の遊びを知る人に手ほどきを受けたいと思うようになりました。蹴鞠とは違うんですかね。???
 昔を知られる方、是非ともホンモノをご教示ください。よろしくお願いします。


 今日は「皇太子誕生日」です。
 浩宮徳仁親王殿下は1960年(昭和35年)に生誕されていますので、いずれは祝日になるんでしょうか? でもって、ナマズ記念日になるとか・・・、ああ、薬が効いてきたみたいで目が虚ろになってきました。

 今日も良い一日でありますように・・・・・・・・・。
コメント
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